雑司ヶ谷旧宣教師館 (69 画像)
雑司が谷旧宣教師館は、明治40年(1907)アメリカ人宣教師ジョン・ムーディ・マッケーレブ(John Moody McCaleb・1861~1953)によって建てられた木造総2階建ての住宅である。マッケーレブは1941(昭和16)年に帰国するまでの34年間この家で生活をしていた。
この旧宣教師館は、19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を色濃く残しており、玄関ポーチの方杖や玄関わきの張り出し窓など、細部にカーペンター・ゴシック様式の意匠が施されている。建物の内部は1階・3階ともに3部屋がT字形に配置され、各階3部屋ともに暖炉が組み込まれ、壁の中で煙突につながっている。1階の西北部にポーチ付きの玄関を設け、北側に廊下及び主階段、南側にはサンルームとしても使える広縁があり、東側には補助階段が付いている。また、2階天井には割竹の装飾がなされ、屋根は和小屋組みになっているなど、随所に日本の建築技術の影響もうかがえ、歴史的建造物としても多くの見どころがある。
豊島区内に現存する最も古い近代木造洋風建築であり、東京都内でも数少ない明治期の宣教師館として大変貴重なものといえる。
1941(昭和16)年10月、太平洋戦争開戦を前にマッケーレブが日本を離れる時、住宅は日本人の手に渡る。その後所有権が転々としたが、地域住民による保存運動をうけて昭和57年に豊島区が取得した。以来、建物調査、保存修理工事を経たのち、1989(平成元)年1月から館内に関連資料などを展示し、一般公開を行っている。
1992(平成4)年11月10日には区の指定有形文化財、1999(平成11)年3月3日には、「旧マッケーレブ邸」として東京都指定有形文化財(建造物)に指定された。
館内の諸室および庭園から見える外観も、アメリカ人宣教師の質素な住宅として特徴的である。

●宣教師マッケーレブの生涯
J・M・マッケーレブは、1861年9月25日にテネシー州ヒックマン郡ダックリバー村のシェディー・グローブ(Shady Grove)で、厳格なピューリタンの家に生まれた。父の死後、敬虔なクリスチャンであった母親のもとで4歳頃から聖書に親しみ、6歳頃から兄達と一緒にフォーティー・シケット(Forty Thicket)の小さな学校に通い始める。14歳の時に洗礼を受け、27歳でカレッジ・オブ・ザ・バイブル(聖書学校)に入学、世界伝道へ関心を持つようになる。
その後、同校の先輩であるアズビル宣教師の勧めで1892(明治25)年、スコット、ホステッターの女性宣教師とともに来日し、上富坂・神田・四谷などを拠点に伝道活動を行った。
明治時代はじめの日本は、近代化を志向した明治政府によって欧化政策がとられていた。そのため、欧米諸国との関係から、江戸時代まで禁教とされてきたキリスト教を許容せざるをえなくなる。明治6年に切支丹禁制の高札が撤去され、制限つきながら信教の自由が容認されると、キリスト教は西洋文化の象徴のと考えられるようになった。宣教師たちは、その伝道者として受け入れられたのである。
しかし明治時代中期以降の日本は、大日本帝国憲法や教育勅語によって天皇主権の国家体制が確立する時期でもあった。また、幕末以来の不平等条約改正運動は、国内のナショナリズムを高め、外国人や外国の文化を排斥する運動につながった。こうして、キリスト教は次第に苦しい立場となっていくのである。マッケーレブの来日は、このキリスト教苦難の時代と重なっている。しかし、彼ら宣教師たちの活動は、社会救済事業や教育の分野で、日本社会に多くの影響を及ぼした。キリスト教の影響を受けた人々の中には安部磯雄、片山潜のように、明治時代末から大正時代にかけて、慈善事業を通じて社会主義運動を推進する原動力となる人物も現れる。
1907年、マッケーレブは築地の外国人居留区から雑司が谷に拠点を移し、雑司ヶ谷学院を開設する。学院には、西洋文化に関心を持つ日本人学生が集まった。しかし、厳格な彼の教えは学生に受け入れられず、禁酒・禁煙などの違反者も多かったようである。
関東大震災で建物の一部が損壊したことを契機に、マッケーレブは雑司ヶ谷学院を閉鎖する。そしてその後は雑司ヶ谷幼稚園を開設し、幼児教育へ力を注いだ。
マッケーレブは、「我が国籍は天国にあり」といって、日本の国旗はおろか、母国アメリカの国旗も掲揚しなかった。戦争による帰国命令で1941(昭和16)年10月、34年間暮らした雑司が谷を離れアメリカに帰国した後、ペパダイン大学で教鞭をとるかたわら、「良心的兵役拒否者」を補助する会を立ち上げるなど精力的に活動し、1953年に92歳で彼の故郷「天国」へ旅立った。

●「福音」1991(平成3)年8月号より
著者の野村基之は、1954年から1961年まで、マッケーレブも教鞭をとったペパダイン大学へ留学し、1980年頃にも現地調査のためにアメリカへ赴くなど、精力的な活動をしていた。その際の調査内容を「キリストの教会全国誌 福音」に「先駆者紹介」として寄稿し、1991年から1996年までの全45編に渡って、知られざるアメリカにおけるマッケーレブの姿を紹介し続けた。
「福音」では、例えばマッケーレブの生地であるシェディー・グローブ(直訳すると日陰の森)がその名の通り森の深い田舎であることなど、実際に現地でみた風景や出来事が書かれるとともに、マッケーレブ自身がつづった記録や、ケンタッキー州のハイランド・キリストの教会などに保存されていた資料、マッケーレブの長男などから譲り受けた資料を基にした解説がなされており、マッケーレブ研究にはかかせない非常に興味深い文章がある。

フリー・スクールとは、当時の、村の一種の公立の学校のことらしいのですが、授業料は無料でした。
このフォーティ・シケットの校舎は現在でも未舗装の赤い砂埃の舞う道路端の茂みの中に、外見はほぼ完全な形で残っています。勿論、今は廃屋です。
フォーティ・シケットの学校は七メートル程の間口で、十八メートル前後の奥行きのある長方形の白色の建物です。入口は一つで、左右に窓があり、正面入り口の右横の正面に二五糎程の高さのステージが残っています。正面ステージの壁には黒板があった様ですが、現在では、その黒板は壁から崩れ落ちてステージの上にもたれて残っています。
教室の右手の壁には煙突の跡がありますし、教室の右側外には付属の階段みたいな物が崩れ落ちて残っています。原始林化した場所の樹木に囲まれた廃校は、周囲に乱立する樹木が多すぎたのと樹木による暗さで写真撮影が極めて困難でした。それでも何枚か廃校の内外を写して来ました。

・東京都豊島区雑司が谷1-25-5
公式ホームページ

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