小泉八雲熊本旧居 (48 画像)
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、怪談(「耳なし芳一」、「雪女」、「むじな」)などの作者として知られている。
この小泉八雲熊本旧居は、1891(明治24)年、第五高等中学校(現在の熊本大学)の英語教師として熊本に赴任した際、最初の1年を過ごした住居である。
八雲の日本に関する最初の著書である「知られざる日本の面影」はここで執筆されたといわれている。
昭和35年解体の危機にさらされたが、小泉八雲熊本旧居保存会が結成され、翌年、旧居は現在地に移築保存された。

●ラフカディオ・ハーン(小泉八雲、1850~1904)
ラフカディオ・ハーンは、19世紀の終わり頃から20世紀初めにかけてアメリカと日本で活躍した文豪である。日本では「小泉八雲」として知られているが、ギリシャで生まれ、アイルランドで育った。八雲はアメリカで20年間働いた後、1890(明治23)年に来日した。
松江から熊本の旧制第五高等中学校(現・熊本大学)の教師としてやってきた八雲は、1891(明治24)年11月19日の夕刻、春日駅(現・熊本駅)に降り立った。数日を旅館(不知火館)で過ごした後、八雲は、松江で結婚したセツ夫人とともに、初めは手取本町34番地の赤星晋策所有の家を借りて住み始める。その家がここ小泉八雲旧居である。八雲はこの家を借りるにあたりただ一つだけ「新しく神棚をつくってほしい」と注文した。八雲の生活は近眼のため机・椅子だけは洋式であったが、ほかはすべて日本式だった。最初の家は1961(昭和36)年に現在地に移されたが(当旧居)、その際に出来るだけ八雲が生活した頃の状態に近づけて建てられた。八雲の長男・一雄は、八雲の熊本滞在中に生まれた。
八雲は日本の文化に魅了され、日本の伝統的な生活様式を尊重し、自身の生活にも取り入れた。たとえば、仕事に出かける前に神棚に柏手を打ち、それから人力車に乗って大学へ通った。日本の伝統的な生活様式を大切に思う八雲は、西洋文化を急いで日本に移入しようとする近代日本の姿に悲しみを覚えていた。
熊本滞在中に、八雲は日本における文豪としての地位を確立した。この時期に書かれた彼の有名な作品には「知られぬ日本の面影」「東の国から」「心」がある。熊本や熊本の人々について書かれた彼の鋭い洞察力は「九州の学生とともに」「石仏」「夏の日の夢」といった作品の中に顕著に見られる。
八雲一家は熊本に3年間滞在したが、その後神戸に移り、八雲は再びジャーナリストの仕事に就いた。神戸におよそ2年間滞在した後、八雲は東京帝国大学で英文学の講師の職を得た。そして、1904(明治37)年に早稲田大学英文科の教員となったが、その年の9月に心臓発作でこの世を去った。

●小泉八雲の熊本の生活
小泉八雲が熊本で生活したのは、八雲が第五高等中学校の英語教師として熊本に赴任した1891(明治24)年11月から、新聞記者として神戸クロニクル社に転職した1894(明治27)年10月までの3年の間であった。
当時の熊本は、西南戦争の後、西欧化・近代化による軍都化した殺風景な町並みが広がるばかりで、「日本的」な寺社や風習に期待していた八雲はがっかりしたようであったが、教師生活を送る中で校長・嘉納治五郎や元会津藩士の同僚・秋月胤永と親しく交わり、また、五高生と接する内に熊本に残る昔のサムライかたぎ、「簡易、善良、素朴」と表現した熊本スピリットを感得することができた。また、八雲は執筆活動を精力的に行い、「知られぬ日本の面影」を出版する。これは、ハーンの文学活動の三本の柱の一つであるルポルタージュ、とりわけ旅行記・滞在記という分野で頂点をきわめた作品集でsつ。八雲が熊本を去った後に出版した「東の国から」や「心」には、熊本を舞台にした作品が収録されている。

●八雲の一日
・6~7時半・・・午前6時、目覚ましが鳴り、妻・セツに起こされる。火鉢の前で日本製の煙管で一服。神棚に参る。
極めて軽い朝食をとる。卵とパンを食べ、コーヒーを飲む。
朝食後、車夫が来る。セツが持ち物を渡したり、ポケットに気を付けてくれたりとお世話して、洋服に着替える。
7時半ころ、一同玄関で見送り、八雲はシガーに火をつけ、妻が延ばした手にキス(これだけが舶来の習慣)をして出かける。

・8~12時
家長のため、八雲が最初に昼食を摂る。時には、旅館(旅籠)で荷車引きに混じって、日本酒を飲みながら、昼食を摂ることもあった。
非常に暑いときは昼寝をする。

・15~18時
涼しいときは女性たちは裁縫をし、男たちは庭仕事をする。
午後6時前後に入浴。

・18~20時
夕食にはステーキやパンなどの洋食を食す。午後6時半から7時半までの間に済ませる。
家族で火鉢を囲み、新聞を読んだり、談話をしたりする。新聞が来なかった日には珍しい遊戯をする。
夜は時に外出し、芝居を見に行く。ランプのついた夜店で時折掘り出し物を見つける。
灯明をつけ、八雲以外の者たちが立ったまま代わる代わる礼拝する。仏様へは跪いて礼拝する。
就寝の合図は八雲が行う。妻・セツがお先に御免蒙りますと言った後、眠りにつく。

・20~
夜更けはまた、執筆の時間でもあった。時には、書くことに心を奪われ時間を忘れることや床についた後も執筆を続ける事があった。

●八雲が記した熊本の情景
「生と死の断片(Bits of Life and Death)」「東の国から」所収
・「屋根に打ち水」の慣習
八雲が坪井の第二旧居で迎えた夏のある日、屋根へ打ち水を行うために地元の火消し人足たちが訪ねて来た。屋根への打ち水は、夏の乾燥した時期に行われていた慣習で、「日照りが長く続くと、太陽の熱だけで屋根が燃えだすことがある」と言われていた。火消し人足たちは、手押しポンプを使って、屋根や、樹木や、庭などに水を掛け、かなり涼しい雰囲気を作り出したという。打ち水の後、火消し人足たちは裕福な家から少しばかりの報酬を受け取っていた。八雲も打ち水の後には、「酒を買えるだけの祝儀」を返礼として渡したという。

・地蔵祭りのトンボ飾り
第二旧居の道向かいにある東岸寺地蔵堂では、毎年夏に地蔵祭りが行われた。祭りの前日に子どもたちが寄進のお願いに八雲の家を訪れると、地蔵も祭りも好ましく思っていた八雲は喜んで寄付を行った。祭り当日に八雲が家を出ると、色紙でくるんだ松の枝の胴体と4つの十能(小さいスコップ)の羽、きらきら光った土瓶の頭を持つ1mほどもあるトンボが門前に止まっていた。それは、寄付のお礼に八雲に贈られたもので、すばらしいそのトンボがわずか8歳の子供が独りでこしらえたものであることに八雲は大変感服したという。

「夏の日の夢(The Dream of a Summer Day)」「東の国から」所収
・雨乞い太鼓のある風景
三角の浦島屋からの帰り道で八雲は、「ドーン、ドーンと腹に響くような音」を聞いた。音源を辿ると、「差しかけ小屋の中で裸の男たちが大きな太鼓を打っている」。八雲がその様を車夫に尋ねると、雨乞いの為に太鼓を叩いているのだ、と説明を受けた。その後、通り過ぎた村々でも様々な太鼓の音を聞いた八雲は、「見えない小さな部落からも、太鼓が鳴って、こだまのように響きを返しているようだ」と述べている。現在、宇土の雨乞い大太鼓は国指定重要有形民俗文化財に指定されており、ハーンに関する資料と共に高く評価されている。

・長浜村の天満宮の池
三角から熊本に帰ったその日は、かつてない猛暑の土用の日であった。喉が渇いた八雲が水を飲みたいと車夫に告げると、ちょうど近くにあった長浜村の天満宮傍らの水飲み場に立ち寄ることになった。冷たい湧き水で満たされた池の木陰には腰掛けが設置されていて、池の清水を飲んだ後、八雲は「そこに腰掛けて、煙草をくゆらして」休息をとったという。現在も国道57号線の旧道沿いにある長浜神社の石段の隣には、「天満宮の池」があり、八雲の描いた長浜村の水飲み場の情景が今も変わらずにその面影を残している。

●小泉八雲と夏目漱石
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と夏目漱石との間には、不思議な縁がある。二人が直接出会うことは一度もなかったが、第五高等学校(五高)と東京帝国大学(帝大)に入れ違いに勤めたこともあり、漱石は同じ教育者・作家として八雲を強く意識していたようである。
漱石の妻である鏡子が「漱石の思い出」で「夏目の申しますのには、小泉先生は英文学の泰斗でもあり、また文豪として世界に響いたえらい方であるのに、自分のような駆け出しの書生上がりのものが、その後釜にすわったところで、とうていりっぱな講義ができるわけのものでもない。また学生が満足してくれる道理もない。」と言っている。また、「書簡集」では、「僕の事が雑誌に出る度に、子規が引き合に出るのは妙だ、とにかく二代目小泉にもなれさうもない」とあり、さらに、漱石の代表的作品「吾輩は猫である」や「三四郎」の中でも「小泉先生」という名前が出てくることからも、教育者としてはもちろん同じ作家としても八雲を強く意識し、八雲の影響を受けていることがわかる。

①人間不信で似た二人
・八雲は、イギリス軍人の父とギリシャ生まれの母の間に生まれた。母子はギリシャに残され、周囲から白い目で見られながら、母子二人で幼年期を過ごす。父の故郷アイルランドのダブリンへ行くが、母は英語ができず、母子孤立。母は一方的に離婚を申し渡され、八雲は最愛の母と生き別れ。大叔母に引き取られ、精神的外傷として残る(八雲の父親嫌いと人間不信を生む性格に影響)。
・夏目漱石(金之助)は、生後に里子に出され、がらくたと一緒に小さいザルの中に入れられ、毎晩四谷の大通りの夜店にさらされていた。塩原昌之助、やすの養子となるが、両親仲が悪く、家庭が崩壊(漱石の父嫌いと人間不信の性格形成に影)。
・八雲も漱石も最初の子「八雲は一雄(明治26年11月17日)、漱石は筆子(明治32年5月31日)」が生まれたのは、この熊本。

②不評だった八雲の後釜
漱石は、イギリス留学から帰国し、東大英文科講師となり、八雲を追い出すことになる。前任者八雲の評判は良く、学生がストライキをした後に乗り込み、学生は冷たい視線。学生が八雲を尊敬したのは、講義もさることながら、すでに著述家として、当時アメリカ第一流の雑誌「アトランティク・マンスリー」で次々と寄稿。そんな八雲が前におり、その輝かしい前任者の名声に圧倒され、漱石は苦しみ、夜中に突然起きて、家の者に当たり散らかす。3度目の妊娠をした鏡子夫人は身の危険を感じ、実家に帰る。先輩の後塵を拝さねばならぬ居心地の悪さ、特に二代目小泉八雲には絶対なれないという居心地の悪さ、その不快感がつのり、漱石は明治40年、大学教授の職を捨て、小説記者として朝日新聞へ。作家漱石が生まれたことは、逆に大変な富くじを引いた。漱石は長編小説を書いており、大作家として世界的に認められた。

③八雲を意識した漱石
八雲と漱石は大変似通った作品を書いている。「知られぬ日本の面影」の中の「日本海の浜辺で」がある。この、子供を捨てた出雲の百姓の話を読むと、思い出されるのは漱石の「夢十夜」の「第三夜」で、やはり子供を捨てる父という同一テーマ。ルポルタージュ記者出身の八雲は、主人公を三人称で客観的に叙述。話は事実に則し、情景描写も白黒の影絵のような民話の世界。漱石は一人称で「自分は」と語りだす。八雲は淡々とした単線的な文章、漱石は緻密に計算された芸術作品。漱石の「第一夜」は八雲の作品「お貞の話」と主題的な類似点がある。

④八雲に挑戦した漱石
西洋から東洋へ来た八雲と、東洋から西洋に行った漱石とでは、技法の上で正反対の軌跡を描いていた。アメリカ時代に八雲は、言葉の画家「ワードペインター」と言われたほどに豊かな色彩を持ち、文学上の印象主義を実践し、日本の事物に接し、日本の文学を再話し、日本人の控えめな態度に接して暮らしているうち、いつのまにか黒白の、墨絵のような文章家となった14年間の八雲の軌跡。漱石の筆法は世紀末の英国のラファエル前派の画風さながらの濃厚な原色を点綴する。「第一夜」の短編には「視力」「視点」「視線」と関係する目偏の漢字が多い。「草枕」の主人公が画家であったのは単なる偶然ではなかった。

●八雲と漱石の授業(第五高等学校時代)
・八雲の授業
八雲の授業は、村川堅固の「母校に於ける小泉八雲先生」に「黒板に向ひ、チョークを取つて、左の上の隅から文法を書き始められる。生徒は黙々としてそれを寫」す、という手法であったとある。「かくして寫し來つた筆記帳を放課後讀んで見ると、秩序整然、而も日本學生に取つて最も適切な文法上の注意が與へられて居」り、さらに「先生は一片の原稿もなく、全時間些の淀みなく書き続けているという記述からも、八雲の授業に対する真面目な様子がわかる。
・漱石の授業
八波則吉の「漱石先生と私」によると、漱石の授業は「粗略で」あり、「(教科書)次から次に讀ませて、不審を聞けば、「どの字が解らない?......字引を引いたのか?」といふ風に反問されるから、滅多に質問もされない。で其の進むこと進むこと。」とあるように、ひたすら教科書を読み進めていくものであった。生徒たちはついていくのに必死であったが、進みが早い分、教科書はもちろん「オセロ」などの小説を一冊読む、ということに達成感と喜びを見出していたようである。

●八雲と漱石の授業(東京帝国大学時代)
・八雲の授業
八雲に関しては、厨川白村の「小泉先生そのほか」において、「引用すべき詩文の書のほか、紙ぎれ一枚と雖も教室には持って来ずそらで話された」とあるように、五高時代とは全く正反対の口授形式の授業だが、教室には何の資料も持ち込まないという点は同じで、そこに八雲のこだわりが見える。その授業風景は「銀鈴を振る如き其聲は、また其文の美しきが如くに美しく、抑揚高低にさへ何の不自然も無かった。断続しつゝ一言また一句、みな能く聴者の胸底に詩の霊興を傳ふるに足る者があった。」と表現されており、生徒の文章も八雲の文学的感性に影響を受けているようである。
・漱石の授業
野上豊一郎の「大学講師時代の夏目先生」によると、生徒たちにとっての漱石は、「教室での態度はキチンとしてゐて試験問題などは一問も苟くもしない底のものであったから皆ひそかに怖れをなす」教師であった。さらに、授業の準備等についても、「草稿といふのはアヒ版の洋罫紙に、釘の頭で突いたやうな細字を、初から終まで隙間なく、行にも何んにも関係なしに並べた奴を、毎日一二枚持って来」る等、漱石の神経質な性格そのままの授業風景がうかがえる。

●小豆磨ぎ橋
松江の北東あたり、普門院の近くに小豆磨ぎ橋と呼ばれる橋があった。それは、その昔、夜な夜な女の幽霊がその橋のたもとに座り、小豆を磨いでいたといういわれのある橋であった。日本には杜若という紫色の素晴らしい美しい花があり、それにちなんだ「杜若」という謡曲があったが、小豆磨ぎ橋の近くでは、この謡曲を決してうたってはならないという言い伝えがあった。そのいわれは分らないが、この橋に現れる幽霊はその謡曲を聞くとたいそう腹を立て、うたった者にはおそろしい災難が降りかかるということであった。昔、この世にこわいものなどないと豪語する侍がいた。ある夜、侍はその橋を通りかかり、「杜若」を大声でうった。幽霊など出てこなかったので、侍は笑いとばして家路についた。門のところまで来ると、これまで見たこともない、背のすらりとした美しい女が立っていた。女はお辞儀をすると、女性が手紙などをいれておくのに使う、漆塗りの文箱を侍に差し出した。侍も毅然とお辞儀を返した。すると女はこう言った。「わたくしは、ただの女中でございます。奥様よりこれを預かって参りました」そう言い終えると、女は目の前から姿を消した。侍が箱の蓋を開けてみるや、その中には血まみれになった子どもの生首が入っていた。そして家の中に入ってみると、客までは、頭をもぎとられた幼いわが子が、息絶えていた。

・熊本県熊本市中央区安政町2-6
公式ホームページ

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