東京都庭園美術館 (418 画像)
朝香宮邸について朝香宮家は、久邇宮朝彦親王の第8王子鳩彦(やすひこ)王が1906(明治39)年に創立した宮家である。鳩彦王は、陸軍大学校勤務中の1922(大正11)年から軍事研究のためにフランスに留学していたが、その先で交通事故に遭い、看護のため渡欧した允子妃とともに、1925年まで図らずも長期滞在することとなった。
当時フランスはアール・デコの全盛期で、その様式美に魅せられた朝香宮夫妻は、帰国後の新邸の建設にあたりフランス人芸術家アンリ・ラパンに主要な部屋の内装設計を依頼し、アール・デコの精華を積極的に取り入れた。また、建築全体を担当した宮内省内匠寮の技師・権藤要吉も、西洋の近代建築を熱心に研究して設計に取り組んだ。実際の建設にあたっては随所に日本古来の高度な職人技が発揮された。朝香宮邸の建築は、夫妻の熱意により、日仏のデザイナー、技師、職人らが総力を挙げて創り上げた、芸術作品と言っても過言ではない。
現在は美術館として使われているが、内部の改造は僅少でアール・デコ様式を正確に留めており、昭和初期の東京における文化受容の様相をうかがうことができる貴重な歴史的建造物として、国の重要文化財に指定されている。

●宮内省内匠寮
宮内省(現・宮内庁)内にあった組織で、皇室建築や儀式で使用する建築の設計・監理を担当しまた。内匠寮は管理課、工務課、内匠寮出張所に分かれており、工務課はさらに建築係、土木係、庭園係、機械係に分かれていた。各係には技師や技手など総勢100名を超す人々が所属し、建造物の造営に関わっていた。
朝香宮邸は、当時工務課長であった北村耕造(1877~1937)のもと、全体の基本設計を洋行帰りの建築係技師・権藤要吉(1895~1970)が担当し、ラジエーターカバーや各種モザイクをデザインした技手の大賀隆、照明や家具をデザインした技手の水谷正雄ら、多数の優秀な技術者を率いて設計が行われた。内匠寮が手がけた同時代の建築としては、秩父宮邸(1927年)、李王家邸(1929年)、高松宮邸(1931年)などが挙げられる。また、東京国立博物館本館(計画案・渡辺仁、1937年)も同部署が実施設計を行っている。住居と事務所部分を一体化し、「ロ」の字に構成した朝香宮邸の基本プランは、内匠寮が東伏見宮邸(1925年)で設計したものが下地になっている。

●マックス・アングラン(Max Ingrand・1908-1969)
画家、ガラス工芸家。ガラスを素材とした室内装飾を数多く手がけ、ノルマンディー号ほか豪華客船の内装にも名を連ねた。初期の作品では、神話や自然をモチーフとした具象的な表現が多く見られるが、第二次大戦後は次第にシンプルでモダンな表現へと向かった。ステンドグラス制作においてもフランスを代表する存在となり、多くの教会を手がけた。
朝香宮邸では、大客室と大食堂のスライドドアや両開き扉にはめ込まれたエッチングガラスを手がけている。

●レイモン・シュブ(Raymond Subes・1891-1970)
鉄工芸家。軽快な曲線と幾何学模様のバリエーションを特徴とする鉄工芸作品を手がけた。アール・デコを代表する作家として、主要な豪華客船や数多くの建築の室内装飾に関わり、手摺りや衝立、扉装飾などの装飾を担当した。1925年のアール・デコ博覧会でも多くパヴィリオンの装飾に加わったほか、1937年にパリで開かれた博覧会における「金属のパヴィリオン」で巨大なファサードを制作し、名声を不動のものとした。
朝香宮邸では大客室ガラス扉上のタンパン(半円形の飾り部分)を手がけている。

・東京都港区白金台5-21-9
公式ホームページ

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