徳富記念園 (109 画像)
徳富記念園は、徳富旧邸と徳富記念館をあわせた呼び名である。
徳富旧邸は、明治3年の暮れに兄弟が一家と共に水俣から移り住んだところである。明治3年から始まったとされる熊本藩の藩政改革で、父・一敬が熊本藩庁勤務を命じられたためである。当時、敷地は3000坪もあり、周囲には桑畑が広がっていた。また、旧邸からは、西に熊本城、東には遠く阿蘇の噴煙を望めた。
蘆花は、大正2年に旧邸を訪れた時の様子を、作品「死の陰に」で、次のように紹介している。
・・・門を入ってすぐの六畳一室の中二階は、父の書斎であった。この書斎とこれに伴う二階建ての一棟が新築された時、五歳の余は~その書斎が明治天皇九州巡幸のみぎり、新たに築かれた御厠であったのを、当時主な県官の一人であった父が記念に払い下げて書斎に建て直したものである・・・
1962年、蘇峰、蘆花の姉婿の子孫、河田家から寄贈された。
徳富記念館は、明治100年事業で昭和45年に建てられた3階建ての資料館である。蘇峰の「近世日本国民史」(全100巻)や蘆花の「自然と人生」など約2000点に及ぶ兄弟の著書や遺品、自筆原稿等が展示・保管されている。

●蘆花作品の舞台に
明治9年10月、熊本では神風連の変が起き、旧邸近くの鎮台司令官・種田少将宅が襲撃された。その騒ぎに母・久子は蘆花の右手を引いて二階へ上がり、雨戸のかげから二人は城下を眺めたのである。蘆花は、その時の記憶をもとに「恐ろしき一夜」を書いた。
また、明治10年、西南戦争の際には、一家は沼山津へ、そして杉堂へと避難したのだが、戦いが終わり帰ってみると、可愛がっていた愛犬は食べられ頭だけが残っていた。このことは蘆花作品『犬の話』に書かれている。

●蘇峰の大江義塾
大江義塾は明治15年3月、旧居の一部を校舎にして開校、19歳の塾長・蘇峰のもとに集まったのは、主に横井小楠の弟子(実学党)であった武士や豪農の子どもたちであった。明治19年11月の閉塾式までの約5年間、毎月50名程度、総数255名の若者がこの塾で学んだ。

●若き塾長・蘇峰
蘇峰は、横井小楠の思想や新島襄の教えを背景に、産業革命で栄えたイギリスの経済やアメリカのデモクラシー等に関する著書を読み解いた。そして、「自由貿易は国家に大益と国際平和をもたらす通商法である」「個人の権利に対して国家の干渉は最小限に抑え、愛国心等が自然に湧き出るようにするのが適切である」等を塾生たちに熱く語ったのである。
なお、大江義塾には宮崎滔天など有能な人材が集まり将来ある若者が各界に巣立っていった。

●新島襄とカタルパ
蘇峰も蘆花も、新島襄が設立した京都・同志社で学んた。また、蘇峰に義塾を開くように薦めたのも恩師・新島襄である。ところで、明治16年末の徴兵制改正で、大江義塾も塾生が激減し存続が危ぶまれる事態となった。そんなある日、蘇峰のもとに「カタルパ」の種が届いた。それは、植物が好きな新島襄らしい励ましの贈り物であった。その後、義塾は再び勢いを取り戻し、父・一敬が植えたカタルパも見事に成長した。現在はその二世、三世が、記念園の庭で清楚で香りのよい花を咲かせている。

●将来之日本
明治19年、蘇峰は大江義塾時代の集大成として「将来之日本」を出版する。この本は現在の日本社会のような国家の姿を示したもので、当時、日本の将来を模索していた人々、特に東京の知識人の間で大評判となった。自信を得た蘇峰は、念願のジャーナリストをめざして、12月、一家で上京したのである。

・熊本県熊本市中央区大江4-10-33
公式ホームページ

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