旧江川邸 (118 画像)
江川家住宅(江川邸)は、桁行13間(約24m)・梁間10間(約18m)・棟高約12mの主屋を中心に、附属の書院・仏間・門・蔵・鎮守社および境内地(11873㎡)が国の重要文化財に指定されている。また、重要文化財を含む江川邸一帯は、韮山役所跡として国の史跡に指定されている。
16代英親は流罪によって伊東に居住していた日蓮聖人を1261年に数日間この家に迎え、供養をつくした。この時家屋の修築を行っており、聖人から「この旧家がなお繁栄するように」と自筆の棟札を贈られた。そのご利益によってこの家は700年以上にわたって無事に保たれてきたと伝えられる。
主屋には、その後室町時代(1334年~1573年)に建てられた部分と関ヶ原の合戦が行われた1600(慶長5)年前後に修築された部分とが含まれている。1958年に国の重要文化財に指定され、文化庁、静岡県、韮山町の協力を得て解体修理が行われた。その際にそれまで茅葺きだった大屋根は現在の銅版葺きに変更された。
主屋は、江戸時代を通じて何度か大規模な改造、修築が行われ、現在見られる形になったと考えられる。しかし、その基本的な構造は変わっておらず、江戸時代広大な幕府直轄地を支配した代官の屋敷として、さらに古くから伊豆韮山に地盤を築いた名族江川氏の居館としての様相をよく残している。
特に注目されるのは、高さ約12mにもなる茅葺きの大屋根を支えてきた、小屋組みの架構である。
かつて江川邸を訪れた建築家白井晟一(せいいち)は、江川邸を「茅山が動いてきたような茫漠たる屋根と大地から生え出た大木の柱群、ことに洪水になだれうつごとき荒荒しい架構の格闘と、これにおおわれた大洞窟にも似る空間」と表現した。
代官所時代には主屋北側の現在の梅林のあたりに役所の建物があったが、主屋その他は江川氏の個人的生活の場として用いられ、また特に幕末の江川英龍の時代の塾の間では、明治時代に活躍した多くの俊英が教育を受けた。

●江川家の沿革
江川家は清和源氏の流れをくみ、源満仲の二男宇野頼親を家祖とし、宇野姓を名乗っていた。6代親治が保元の乱(1156年)を避けて、その孫親信が従者13人と伊豆の韮山に定住したと伝えられる。この13人の子孫は、現在でも江川家住宅周辺の金谷地区に居住している。親信の子治信は、この地に流罪となっていた源頼朝の平家に対する挙兵(1180年)に応じて参戦し、江川庄を賜ったといわれる。
その後鎌倉時代、室町時代と伊豆の豪族として地盤を固め、15世紀中頃に、狩野川の支流の名にちなんで、姓を江川と改めた。
北条早雲の伊豆進出(1493年)にあたっては、23代英住が土地(城池親水公園に隣接する韮山城址)を提供して韮山城を築城させ、その後5代にわたって北条氏の家臣となった。
28代英長は徳川家康に仕え、徳川幕府が成立し伊豆が幕府の直轄地になるに及んで、代官としてこの地を統治することとなった。以後明治維新に至るまで、江戸時代のほぼ全期間を通じて代々徳川幕府の代官を世襲して勤めた。当主は通称として太郎左衛門を名乗った。特に幕末の江川太郎左衛門英龍は文化人、開明思想家、革新的技術者として有名である。

●江川太郎左衛門英龍(坦庵)
36代英龍(1801~1855)が代官として活躍した幕末の時代は、欧米の列強がアジアの各地を次々と植民地化した時代であった。彼は蘭学を修め、渡辺崋山や高野長英らと交わり、外国の社会事情や国際情勢を知り、日本の置かれた立場を深く憂慮した。幕府に対する沿岸防備の建議、農兵制度(近代的な兵制)の建議と農兵訓練、西洋の砲術の研究と訓練、測量技術の研究と実施、東京湾のお台場(沿岸防備のための砲台)や韮山の反射炉(銃砲鋳造のための溶鉱炉)築造に関する提案と実行、パン(兵糧として)の最初の製造、戸田村での最初の西洋式造船の監督、そして江川塾における教育など、極めて多くのことを行っているが、これらはすべてこの憂国の思いから出たものであった。同時に彼は欧米の共和制、民主主義にも深い関心を寄せている。
また英龍は代官として民政に心をくばり、支配地は伊豆、駿河、甲斐、武蔵、相模、伊豆諸島に及び、領民から「世直し江川大明神」と敬われていた。広い地域に対して行政として初めて種痘を行い、領民を天然痘の流行から守ったのも彼であった。一方では多彩な余技を持つ文化人であり、数多くの書画、詩作、工芸品などを残している。

●坦庵翁女子への訓言
家臣の娘が嫁に行くにあたって、江川英龍(坦庵)が書き与えたもので、女性として、妻として心得ておくべきことが箇条書きで示されている。
江戸時代の武家やそこに仕える立場の女性たちにとって、どのようなことが美徳や常識とされていたのか、その一端を垣間見ることのできる史料である。

坦庵翁女子への訓言
夫を天といたし候ことは、誰も弁(わきま)え居り候事に候えども、天を怨み天を厭い候とて、逃げ申すべく様これなく候、これらの義に心を付け、能々(よくよく)相事(つか)え申すべく候、凡そ門内の治は恩義を掩い候故、心易立も出来(しゅったい)いたし候間、敬慎専一心懸け申すべく候事
一 男は剛を以て徳といたし、女は柔なるを以て用といたし候事に候間、身を修め候には敬にしくはこれなく、つよきを避け候には順にしくはこれなく候事故、敬慎の道は婦人の大礼に候、さて誰しも最初嫁し候節は、何様も厚く心懸けるべくつもりの処、追々居馴れ候に従い、前も申し候心易立等出来候ものに候間、精々心を用い差し出がましき儀・不足がましき事もこれあるまじく候、総じて足ることを知り、堪忍専一に心懸け、我が事はすべて扣目(ひかえめ)々々にといたし申すべし、凡そ事に直なると曲れるとはあるなれども、これは直これは曲れるなど申す時は、自然高声にも相なり、終には夫婦申し争い等出来候は、畢竟平日前条の次第相学ばざる故の事に候、曲げて従うは女の道に候、心得申すべく候事
一 夫留守の節客来これあらば、右の段申し断り申すべく候、若し拠無き儀にて座敷まで通し候はば、誰にても側に差し置き、差し向かいに相ならざる様、精々心付け申すべく候、凡そ物腐らず候えば蛆生じ申さず、人も疑われず候えば讒(そしり)も入り申さず候、能々心得申すべく候事
一 纔(わずか)なる功に傲り候は、教え無き婦人の振合に候間、能々心付け申すべし、よろしき儀これあり候とも、自負の躰(てい)これなく、不行届・不調法などと申され候とも、我が身を顧み候階梯と心得、聊かも不平の趣申すまじき事。
一 下女どもの申し聞き候儀を取り用い申すまじく、人の噂等申す儀心付け申すべく候事
一 衣類その外、すべて手懸け候ものへは、念を入れ申すべき事右は此度縁付き候に付、最初よりの心得方大切のもに候間、認(したため)めさし遣わし候ものなり

家政の儀に付、他家ならびに里方の振合を例に引き、彼是申すまじく、且つ自分申し出候通りに相ならず候とて、如何の顔付又はプリプリいたし候事ども甚だしく夫たるものの気色に障るものに候、これらの儀はすべての事に勘考いたし候はば心付け申すべく候、且つ夫に対し一旦は逆らい候とも、終には致し方これなく候間、最初より従い居り候方、女の道にも適い神妙に心得申すべく候事

・現代語訳(意訳)
坦庵翁(江川英龍)女子への訓言
夫を「天」とするというのは、誰もが理解していることであるが、天を怨み、厭うようになったとしても、どこかへ逃げることはできないのだから、これから書くことを心に留め、よくよく夫に仕えるようにしなさい。家庭内が平和であると気がゆるみ、ついつい恩義(や礼儀)を忘れ、心安だて(気の置けない、なれなれしい様子)になってしまいがちであるから、いつも「敬慎(敬い慎むこと)專一」を心がけるように。
一 男は剛を徳とし、女は柔なるを用とするものである。従って女がその身を修めるには「敬」が第一であり、強きを避けるには「順」が第一である。つまり「敬慎」の道は、婦人にとって最も大切な礼儀である。さて、誰しも最初に嫁にいった時には、どんなことにも配るつもりでいるものだが、追々馴れてくるに従って、前にも申したように心安だてになってしまう。だから気をつけて心を用い、さし出がましいことをしたり、不足があるなどと言ったりしてはならない。総じて足ることを知り、「堪忍専一」を心がけ、自分のことは全て控えめにするのがよい。世の中には真っ直ぐな(正しい)ことと、曲がった(間違った)ことがあるけれども、「これは真っ直ぐ」「これは曲がっている」などと口に出して言ったりすれば、自然と声高になり、しまいには夫婦の言い争いにまでなってしまうことがある。これは結局のところ、前条で申したことを常日頃から学んでいないためなのである。(自分の考えを)曲げても、夫に従うのが「女の道」である。心得ておくべきことである。
一 夫が留守の時に来客があっても、家に招じ入れるべきではない。もしよんどころない事情で座敷まで通すことになったとしても、必ず誰かを側に置き、客と二人きりで差し向かいになどならないよう、よく気をつけるべきである。物が腐らなければ蛆の生じることがないのと同じ道理で、人も疑われないようにすれば、他人からそしりを受けることはないのである。よくよく心得ておくように。
一 わずかな手柄におごり高ぶるのは、教養のない婦人の振舞であるから、よくよく気をつけなさい。たとえ自分に良い点があったとしても、それを自負するような態度を見せてはならない。逆に他人から「不行届」だの「不調法」だのと言われても、それは我が身をみるための階梯(ハシゴのこと。学芸などの段階・手引の意)と心得て、少しでも不平不満を言ってはならない。
一 下女たちの話しているようなことを、本気で取り上げてはならない。また、他人の噂話などにも、十分注意しなければならない。
一 衣類その他、全て自分が手がける物に対しては、念を入れるべきである。
右の内容は、このたび嫁にいくということなので、何より最初の心得方が大切なものであるから、特に認めてさし遣わすものである。

家政のことに関して、他家や自分の実家のやり方を引き合いに出して、かれこれ言ってはならない。ものごとが自分の意見通りにならなかったとしても、いかがかと思われるような(不満げな)顔つきをしたり、プリプリと怒った様子を見せるなどというのは、夫たるものの機嫌をはなはだしく損ねることである。これらのことは、全てのことに通じる考え方であるから、心に留めておくように。また、夫に対して一旦は逆らったとしても、最後には仕方なく従うことになるのだから、それなら最初から逆らわず従っておく方が、女の道にも適い、神妙なことだと心得ておくべきである。

●35代当主・8代韮山代官英毅公の時の役所勤務規則
一、役所出勤の者は元〆手代を除いて当番を極め、当番は朝五つ時(午前八時)に出勤 役所の入口などの〆切り木を外すこと。
但し役所の鍵は当番が預り、七つ時(午後四時)に退出する時翌日の当番へ渡すこと。
一、各は出勤したら帳面に自分の名前を書き、押印すること。
但し病気や都合で出勤できない場合は、その旨を当番に断りの手紙を出し、当番はそのことを記載しておくこと。
一、四つ半時(午前十一時)に食事のために退席するので、その時は当番が居残りとなって処々の戸締まり、湯呑所の者へよくよく確認してから退出すること。
九つ半時(午後一時)に出勤し、七つ時(午後四時)に退出すること。
もっともその日の仕事によって変わることもある。
但し翌日の当番は居残り戸締まりをして、湯呑所へ届け退出のこと。当番ではないときの出退勤も同様にすること。
一、七つ時退出する前、当番は日記・御用留・廻状留・文通留等その日の勤務内容を記載した帳面を提出すること。
但し御用繁多の時は夜分に持ち帰って仕事をするように。
一、夜中に急御用状が到来したり、そのほか急ぎの仕事が入ったりした場合、元〆と当番に知らせ、郷宿(村から役所へ取り次ぎの場所)、そのほかへも通知すべし、
但し当番は名札を役所の入口へ掛けて置くこと
一、夜中は役所内の戸締まりを怠りなく心がけ、火の元等に気をつけ、出役部屋においては乱雑にならないようにして無用の者等の出入は禁止部屋待の者共には注意するように。
一、諸帳面・箪笥の鍵は元〆役が預かること。
一、紙の遣い払いは自分用の詰所の箪笥に入れて置いて、鍵は当番が預り入用にしたがってその時々に差し出すこと、退出時には鎖をかけ錠をすること、
但し遣い払い帳を仕立ること、毎月末に勘定をすること。
一、湯呑所に郷宿のほか他所の村役人を入れないこと。
但し、これとわかるよう入口へ建札をすること。
一、出張から戻った時は勘定仕上げ、三日以内に提出すること。
但し、帰着後すぐにできない事情がある場合は理由を言って延長もできる

三月

・静岡県伊豆の国市韮山韮山1
公式ホームページ

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