宗鏡寺 (111 画像)
圓覚山宗鏡寺は、出石町東北、入佐山にあり、開山は京都五山の一つ、東福寺の大道一以禅師である。創建は1392年、開基は当時の城主であった山名陸奥守氏清で、氏清の法名から寺名が名づけられたと伝わっている。
山陰随一の伽藍を誇っていたが、織田信長の但馬平定によって山名氏が滅び、寺もまた荒廃した。1616年、小出吉英の外護の元、沢庵和尚を招き再興された。以後、京都紫野大徳寺派の、但馬における別格地として現在に至る。
沢庵和尚の故郷の寺であることから、「沢庵寺」と呼ばれ人々に親しまれてきた一方、出石藩主の菩提寺として栄えた。

●沢庵宗彭
沢庵和尚は、1573(天正元)年12月1日出石城下(現:兵庫県豊岡市出石町)生まれである。父は出石城主・山名祐豊(すけとよ)の重臣・秋庭能登守綱典(あきばのとのかみつなのり)で、和尚8歳の時、山名家は羽柴秀吉に攻められて滅亡、父は浪人となった。その2年後、出石浄土宗の唱念寺(浄土宗)で出家し春翁と称した。
14歳の時、出石藩主菩提寺・宗鏡寺(禅宗)に移り、希先西堂の弟子になり名を秀喜と改めた。19歳(1591)の時、希先が死去したので、翌文禄元年(20歳)に時の出石藩主・前野長泰の招きで京都の大徳寺から董甫宗仲(とうほそうちゅう)が住職に任じた。 宗忠は大徳寺住持の春屋宗園(しゅんおくそうえん)の弟子で、この時以来、大徳寺との関係が生まれた。22歳のとき董甫が京都へ帰るのに従って、大徳寺塔頭三玄院に入り、そこで春屋宗園について、宗彭(そうほう)と名を改めた。28歳の時、董甫が死去したのを機に京都を去り、堺に出て、大安寺に寓居していた建仁寺派の学僧文西西堂について、儒学、詩歌を学んだ。
そして29歳の時、文西が死去し、同じ堺の南宗寺陽春庵にいた一凍紹滴(いっとうじょうてき)の許に入り、33歳(1604年)の時、一凍紹滴の印可を受け沢庵の号を授かった。清貧を喜び名利を望まず、大徳寺の第153世住持に出世した際は、僅か数日で大徳寺を去り、堺へ戻った。その後47歳で郷里出石に帰り、隠棲の地として宗鏡寺に投淵軒を結ぶ。
しかし江戸幕府が開かれると、幕府による朝廷や寺社への影響力が強まる。沢庵和尚は勅願寺である大徳寺を守るため抵抗を試みるが、幕府によって出羽国上山へ流罪とされてしまった(紫衣事件)。
やがて罪が許されると、徳川3代将軍家光に謁見し、厚い帰依を受けるようになる。権力を嫌う沢庵和尚は「つなぎざる」と自嘲しつつも、晩年は紫野大徳寺仏法護持のため家光に近侍。やがてその願いを遂げる。
江戸で73歳の生涯を終えるとき、墓碑や遺誡を残すことを戒めた。しかしその道風遺徳を慕う人が多く宗鏡寺には墓所が作られ、また多くの遺誡が記され今に残る。

今の世に 順ずれば道に 背く道に 背くまじとすれば 世に順ぜず

●沢庵漬け
沢庵漬けは元々「貯え漬け」と呼ばれ、古来より重宝された保存食であった。ある時、沢庵和尚が徳川家光にこの漬物を献上したところ、大変気に入った家光が「名前がないのならば沢庵漬けと呼ぶべし」と言ったことから、この名前が広まったと伝わっている。 宗鏡寺では今でも住職自らが、伝統製法を用いて糠と塩だけで沢庵漬けを作っている。

・兵庫県豊岡市出石町東條33
公式ホームページ

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