夏目漱石大江旧居 (35 画像)
夏目漱石の熊本における3番目の住居・大江旧居は、大正天皇侍従として東京勤めだった落合東郭の留守宅を借りたものあった。
明治29(1896)年4月13日、夏目漱石(当時29歳)は愛媛県松山中学校から第五高等学校(現熊本大学)の英語教師として熊本に来た。
上熊本駅(当時池田停車場)に降り立った漱石は、人力車に乗って新坂から熊本市内へと向かった。その途中、眼下に広がる市街地の美しい景色に思わず感嘆し「熊本は森の都だ」と言ったと伝えられている。
熊本時代の漱石は、英語教師にとどまらず、俳句をたくさん詠み、指導者として五高生たちと近代俳句の会「紫瞑吟社」を結成し、熊本の俳壇に新風を吹き込んだ。あわせて、この時期、漱石の人間観人生観は深まった。そして「草枕」「二百十日」、「三四郎」などの作品が生まれた。熊本は、漱石の人生に大きな影響を与えたといえる。
漱石が第五高等学校教授として熊本に住んでいたのは、明治29年4月~33年7月までの4年3ヶ月の間で、その間6回も引越した。この第3の旧居には明治30年9月~31年3月までの7ヶ月を過ごした。しかし、家主の東郭が帰熊したため、やむなく井川淵に転居した。漱石はこの第3の家から「草枕」の素材となった小天旅行に出かけている。
旧居は、元々白川小学校裏の大井手川沿いの熊本市中央区新屋敷1丁目16(飽託郡大江村大江401番地)の旧熊本中央病院の敷地内に建っていた。鏡子夫人は「思ひ出」の中でこの住居について「来てみますとここは大層景色のいいところで家の前は一面の畑。この見渡す限り桑畑が続いて森の都といわれる熊本校外の秋の景色はまた格別でした」と記している。
1971(昭和46)年、中央病院の増築工事で取り壊されることになった旧居は、所有権が熊本市に譲渡され、現在の水前寺公園裏の元動物園跡に移された。

●漱石の旅と小説
漱石は旅行好きでも知られ、熊本でも多くの小旅行にでかけている。それらの旅は、漱石がのちに発表する小説の題材になるほど、漱石の創作意欲をおおいに刺激した。
1906年に発表された小説「草枕」は、1897年に3番目の家(夏目漱石大江旧居)から玉名・小天温泉への旅が題材。漱石が歩いた道は現在「草枕ハイキングコース」として整備されている。この中で、当時の姿のまま残るのが鎌研坂で、この坂が、「草枕」の冒頭にある「山路を登りながら、こう考えた」の「山路」ではないかと考えられている。
小説「二百十日」の題材となったのは、1899年秋の阿蘇への旅。その翌年、漱石は英国留学を命じられ熊本を去る。ロンドンから、小天温泉へともに出かけた友人へあてた手紙に、「帰国したら日本流の旅行がしたい。小天旅行などを思い出すよ」と書き、留学中も熊本での出来事を懐かしんでいたことが伝わっている。熊本での日々は、漱石にとって忘れられないものだったといえる。

●家主の落合東郭
家主の落合東郭は1866(慶応2)年11月26日、詫麻郡大江村(現熊本市)に生まれた。名は為誠(ためのぶ)。東京帝国大学(現東京大学)卒業後、七高、五高を経て宮内省に入り、大正天皇の侍従を務めた。昭和17(1942)年1月19日に死去。漢詩人。

●漱石と家族
漱石の熊本時代は、鏡子夫人との結婚や、長女の筆子の誕生など、人生の節目となる出来事が多く起こっている。
鏡子夫人とは、東京で見合いで知り合った。結婚式を挙げたのは、熊本での最初の家で、出席者も少ない、ささやかな式であった。5番目に住んだ家では長女の筆子が誕生。漱石は、その時々の喜びの気持ちを俳句に残している。
家庭での漱石については、鏡子夫人の羽織をはおってふざけけるひょうきんな一面があったことや、甘いものも好きだったこと、犬好きだったことなど、家族と幸せな日々を送るエピソードが残されている。

●漱石と五高
旧制第五高等学校は、現在の熊本大学の前身の一つ。漱石は五高の英語教師として赴任した。
五高からは、政財界、学術界などで活躍した人物が多く卒業している。
1896年から約4年間、漱石は五高で教鞭をとり、生徒たちと交流を深める。のちに漱石が書いた小説には、五高生がモデルとされる人物も登場。漱石が熊本で詠んだ多くの中には、五高にちなんだ2句(通称「五高吟」)がある。
当時の姿を残す赤レンガの五高記念館は熊本大学キャンパス内にあり、国の重要文化財に指定されている。
構内には漱石銅像と句碑がある。

●熊本時代の漱石
明治29年(1896)4月から33年(1900)7月までの4年3カ月を熊本ですごした漱石は、第五高等学校の教授として教育の現場にたちながら、同僚の先生たちや教え子たちと交流を深め、プライベートでは結婚し家庭をもち父親になった。五高やそれぞれの旧居、熊本のあちらこちらにいろいろなエピソードが残っている。熊本での多くの人々との出会いや体験は、その後の漱石の小説にもおおいに影響をおよぼしている。

・鼠とり名人の三毛猫
大江の家では鼠がでて仕方ないので、女中の姉さんから鼠捕り名人の三毛猫を借りることになった。この猫、評判通りよく鼠をとるのだが、困ったことにご飯のおかずまでさらっていった。たまりかねた末、下宿していた五高生の土屋が通学途中に置いてくるのだが、すぐ帰ってきておかずを横取りした。ある日、夏目家にきた前の飼い主の膝の上にいた猫を、この五高生が捕まえて靴下を頭にかぶせ連れていってしまった。居合わせた夫人たちは冷や冷やしたという。

・お茶目な漱石
普段はきちんとした身なりを心がけている漱石だが、鏡子夫人がぬいだ着物を羽織って家のなかを歩いてふざけたりするお茶目な一面があった。漱石は冷水浴が日課だったが、寒い日は、冷たい水にフウフウ言って躍りあがったり飛びあがったりして辺りかまわず水をはねとばし、女中に「小鯛のごたる」といわれたという。

・おせち料理が生んだ名作「草枕」
1897(明治30)年正月、同僚や五高の学生などが家に押しかけ、鏡子夫人が苦心して作ったおせち料理が早々に無くなってしまい、おもてなしができず、しまいには夫婦げんかになってしまった。これに懲りた漱石は、正月は外ですごそうと思い立ち、翌年は暮から小天温泉(玉名市)に出かける。この旅の経験が、後に「草枕」を生む素材となった。鎌研坂、峠の茶屋など、その道中や宿泊先が小説の舞台になっている。

・小説のモデルになった五高の教え子
漱石の家によく出入りし、内坪井の家に「物置でもいいから置いて下さい」と頼み込んだものの叶わなかった寺田寅彦が、小説「吾輩は猫である」の寒月君のモデルだといわれている。また同じ小説の多々良三平のモデルは、3番目の大江の家に書生として下宿し、大食漢のうえ朝寝坊で夫人を困らせた俣野義郎だという。

・犬好きの漱石
内坪井にいたころから夏目家では大きな犬を飼っていて、漱石はこの犬を大変可愛がっていた。やたら人に吠える犬で、近所からは苦情がでるほどであった。ある日、とうとう通行人にかみついてしまい警察までくる始末。漱石が犬可愛さにいう言い分は「犬は利口で人相のいい人には吠えるはずがない。かみつかれるのは人相が悪いか犬に敵意があるもので、犬だけを責められない」と、巡査と言い合いになった。ところがある晩、謡の稽古から帰ってきた漱石にひとしきり吠えたこの犬は、あろうことか御主人様にかみついてしまったのであった。

・筆子の雛人形
長女の筆子が生まれた翌年、正岡子規から初雛にと小さい三人官女が送ってきた。夏目家ではこの人形を長く大切にして、筆子の長女の初雛にも飾って受け継がれていたのだが、戦争で疎開させたのが運の尽き。お雛様を飾ろうと箱を開けてみると、見るも無残。子規の人形は、鼠にかじられてしまっていたのであった。

・漱石のお好み
後に長く胃病に苦しんだ漱石だが、熊本時代はなかなかの大食いだったという。青魚が嫌いで、こってりした脂っこい肉類のようなものが好きであった。あべかわ餅は嫌いだが、羊羹など甘いものは好きだったようで、後年、寺田寅彦は、「夏目家で先生が好きだとみえる美しく水々とした紅白の葛餅のようなものをよくよばれた」とエッセイに書いている。

・夏目家の家計簿
夏目家は、五高の月給が100円、うち10円を差し引かれたのが毎月の収入であった。大学時代の奨学金返還や実家への仕送り、漱石の本代を引くと、およそ50円でのやりくりであった(途中仕送り額は減り奨学金も完済)。夏目家には同僚の先生や学生も下宿していて、下宿料も入ってきた。下宿人の食事も出しながら、毎月なんとかやりくりしていた鏡子夫人だが、実はこっそり手箱に5円ずつヘソクリをしていた。ところがある日、縁側に泥の足跡があり、あったはずの手箱がなくなっていた。まんまとヘソクリはコソ泥に取られ、後の祭りとなってしまったのであった。

・熊本県熊本市中央区水前寺公園21-16
公式ホームページ

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