旧堀田邸 (139 画像)
旧堀田邸は堀田正倫の邸宅で、1890(明治23)年に竣工された。1911(明治44)年には湯殿が増築され、現在は主屋や門番所、土蔵等の建物と庭園が残されている。主屋は木造平屋建て一部二階建で5棟で構成され、主屋は寄棟造桟瓦葺一部金属板葺で玄関棟・居間棟・座敷棟・書斎棟・台所棟の五棟に分けられ、伝統的な和風様式で建築されている。現在台所棟はほとんど解体され昔の様子が失われているが、他の四棟は建設当時の状態に復元整備されている。湯殿は明治44年に東宮陛下(大正天皇)の休憩のために新しく増築された建物である。
現存する明治期の旧大名家の邸宅として数少ない貴重なものである。庭園は眼下の高崎川や対岸台地を借景にし、芝を中心にマツやサルスベリなどの樹木と景石や石塔が配されている。
また、下総佐倉堀田家文書には旧堀田邸新築に関する文書や図面が残され、当時の状況を知ることができる貴重な資料となっている。
2001(平成13)年3月、庭園を含む一帯が千葉県指定文化財(名勝)に指定された。
その後、2006(平成18)年7月には、住居部5棟・門番所・土蔵が国の重要文化財(建造物)に指定され、更に、2015(平成27)年3月には、庭園を含む一帯が「旧堀田正倫庭園」として国の名勝に指定された。
旧堀田邸が建築された頃の日本は、欧米先進国を模範として近代化を進めていた。政治的には憲法制定・国会開設をめぐり、過激な行動を用いて民主化を求める運動もおこなわれていた。
経済的には「士族の商法」に失敗した士族、税金の増加と米価の低迷によって家計が破綻した農民が多く、社会は動揺していた。
このような時に、堀田正倫は華族として明治天皇に仕えていた。しかし、正倫はいたずらに都下にあって空しく歳月を送るより、愛着がある旧封地佐倉に邸宅を建築し、地方における教育・農業の発展を目指したものと思われる。明治21(1888)年、家令に下記の趣意書を示し、その決意を表している。
正倫は、明治30年には堀田家農事試験場を創設し、この地方の農業の発展に関与した。
また、奨学金を作り、佐倉中学校(現佐倉高校)へ多額の寄付をし、学問を奨励した。

趣意書

国会開設ノ期モ近ヅキタレバ華族モ大イニ奮発セザル可カラズ、才力アリテ名声ヲ天下ニ博セントスル者ハ都会ニアラザレバ志成スコト能ハズト雖モ、無能ノ者ハ熱閙喧噪ノ巷ニ在リテ狂人ト共ニ走ルノ譬ニ洩レザランヨリハ寧ロ閑雅幽邃ノ地ニ住ミテ身心ヲ安養シ地方相当ノ事業ヲ経営シ国民タルノ義務ヲ尽スニ如カズト思考ス、依テ速ニ地方ニ移住シ、旧来ノ習慣ヲ一洗シ諸事素朴ヲ旨トシ此目的ヲ達センコトヲ欲スル

第一 一家ノ経済ヲ営ムモ先ズ国益ヲ思フベキコト
第二 袖手徒座安逸ヲ食スルハ国ノ罪人ナリ、宜ク国利民福ヲ計ルベキコト
第三 余金アラバ山林ヲ購入シ或ハ荒蕉ニ属スル原野ヲ変シテ有益ノ地ト為スコト
第四 田畑山林ノ不動産ヲ以テ世襲財産ヲ作ルコト
第五 勤倹素朴所謂田舎ノ質素ヲ旨トスルコト
第六 佐倉ニ永住シ家計ノ基本ヲ堅クシテ力ヲ国ノ富源タル教育及農業ニ尽コト

●堀田氏
堀田氏は、もともと尾張国津島(愛知県)の武士であった。戦国時代の当主堀田正吉は、主君を次々と変えた後、1605(慶長10)年に徳川家康に召し出された。その子正盛は、江戸幕府3代将軍徳川家光の側近となり、1642(寛永19)年には佐倉城主として11万石を与えられる。しかし、その子正信は幕政批判をし、江戸から佐倉へ無断帰国した行動を咎められ、領地を没収されてしまった。
その後、正盛の三男正俊の孫にあたる正亮が、1746(延享3)年に山形から佐倉に転封された。これ以降堀田氏は、正順・正時・正愛・正睦・正倫と代々佐倉を領地としていた。あわせるとおよそ145年間、江戸時代の半分以上の長い期間、堀田家は佐倉藩主を務めていたことになる。
●堀田正倫(1851~1911)
堀田正倫は、最後の佐倉藩主だった。明治時代になると、正倫は華族として東京に住んでいたが、佐倉で国の基となる農業と教育の発展に尽そうとした。佐倉に邸宅を構え、その周辺に堀田家農事試験場を明治30年に作った。この試験場は、明治時代の千葉県を代表する農業研究機関である。また、学問のため奨学会を作り、当時の佐倉中(現佐倉高校)へ多額の寄付等もした。

・千葉県佐倉市鏑木町274
公式ホームページ

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