熊本城 (184 画像)
現在の熊本城の前身である「隈本城」は、14世紀に初めて歴史上に現れた。城の位置は定かではないが、はじめは千葉地区にあり、のちに古城地区に移ったともいわれている。茶臼山周辺は中世から城が築かれた要所で、政治や戦いの舞台であった。
16世紀後半、九州では肥前の龍造寺氏、豊後の大友氏、薩摩の島津氏が勢力を争っていたが、次第に島津氏が九州北部に進出した。1587(天正15)年、大友・島津氏に出した停戦令を島津氏は受け入れず、豊臣秀吉は九州に出兵した。大軍勢を前にした隈本城主・城久基は抵抗なく城を明け渡した。秀吉は、薩摩への道中で隈本城に2日滞在し、この城を「名城」と称えた。
九州を平定した豊臣秀吉は、天正15年(1587)6月に佐々成政へ肥後一国を与え、隈本城を居城とするために城の改修を命じた。しかし、任命から1か月もしないうちに領内の国衆が検地に反発して一揆を起こし、秀吉は一揆を生じさせた罪で成政を切腹させた。成政に代わって肥後北半国の領主に大抜擢されたのが、加藤清正である。1588(天正16)年に肥後国に入った清正は、1590(天正18)年ごろから中世の隈本城を石垣づくりの城に大改造していく。城には天守や櫓・御殿が建てられ、城と同時に城下の整備も進められた。現在の熊本城は、1599(慶長4)年現在の茶臼山を中心とする場所に築城され始め、本丸は慶長12年に完成した。元の城は「古城」と呼ばれるようになった。
周囲5.3km、総面積約98万㎡にもおよぶ広大な城域は、大小天守を中心に、櫓49棟、櫓門18棟、城門29棟があったといわれている。現在、宇土櫓をはじめ13棟が国の重要文化財に指定され、57.8万㎡が国の特別史跡に指定されている。
熊本城は築城以降、地震や大雨・洪水などで何度も被災し、その度に修理されてきた。細川時代に行われた修理は、石垣だけでも少なくとも20回が記録に残る。そのうち半数近くは災害からの復旧のために行われたものだった。また、現存する櫓の多くは幕末に修理されたことが棟札や柱などに残る墨書からわかっている。
熊本城の天守や本丸御殿大広間の部屋の多くは、加藤時代の狩野派の絵師による障壁画で飾られた。細川忠利が入国すると、矢野派の絵師を呼び寄せ、本丸御殿の「松之間」や「吉野之間」などの障壁画を描かせた。天守の障壁画とされる作品は残っていないが、本丸御殿の障壁画とされるいくつかの作品が、当時の華やかさを伝えている。

●先進的な学びの場となった古城
明治3年(1870)に古城に開院した治療所は、オランダ人軍医マンスフェルトを招いて翌年に古城医学校・病院となった。ここでは、のちに日本細菌学の父と呼ばれる北里柴三郎のように、日本の医学の発展に貢献した多くの人材が育った。1871(明治4)にアメリカ退役軍人ジェーンズを招いて開校した熊本洋学校ではすべての授業が英語で行われ、1874(明治7)年には日本で初めての男女共学となった。

●本丸御殿の発掘調査成果から見る熊本鎮台
1871(明治4)年8月、政府は仙台・東京・大阪・熊本の4か所に、陸軍の拠点である鎮台を設置した。1873(明治6)年名古屋・広島に新たに鎮台が追加されると、1874(明治7)年には花畑町から熊本城本丸に九州全域を管轄する鎮台本営が移転し、軍都・熊本の中心として歩み出した。1999(平成11)~2006(平成18)年にかけて行った熊本城本丸御殿跡の発掘調査では、鎮台時代の本丸御殿の利用方法の一部が明らかになった。

●明治5年西国巡幸と熊本城
1872(明治5)年6月19日朝5時に會輔堂を出発した明治天皇は、古城医学校や熊本洋学校を訪れ授業の様子をご覧になり、外国人教師のマンスフェルトやジェーンズと対面。その後に鎮西鎮台(のちの熊本鎮台)のある熊本城内を巡覧し、大天守最上階に上っている。明治天皇がご覧になった熊本城の風景は、行幸に同行した写真師内田九一が撮影し、国内に広く伝えられた。

●天守再建
西南戦争直前の火災によって天守を含め、多くの建物を焼失したが、宇土櫓や東竹之丸の櫓群など、築城当時の建物も残っており、13棟が国の重要文化財に指定されている。1960(昭和35)年に市民からの寄附金も受けながら鉄骨鉄筋コンクリート造で再建された天守は、明治時代初期に撮られた写真などをもとに、瓦の枚数まで忠実に外観復元された。
平成28年熊本地震で被災したが、震災復興のシンボルとして最優先で復旧作業が進められ、2021(令和3) 年3月に完全復旧した。新たな天守閣は最新技術による耐震補強やバリアフリーが取り入れられるとともに、展示内容や内装も全面リニューアルされ、より安全に、そして魅力的に生まれ変わった。

●加藤清正
熊本城を築城した加藤清正(1562~1611)が肥後に入ったのは、27歳の時であった。尾張(現在の愛知県西部)出身で、豊臣秀吉(1537~1598)とは、双方の母親がいとこ同士だったという説がある。
肥後に入った後の清正は、長引く戦乱で荒れ果てていた肥後を立て直すために、治山治水工事や、水田の開発などに力を入れる。その工事の功績はたいへん大きく、現在でも現役で利用されているものがある。また、南蛮貿易に取り組むなど、領地経営を積極的に行うことで、肥後は豊かになった。そのため、加藤清正はやがて領民から神様のように慕われ今でも「清正公(せいしょこ)さん」と熊本県民から親しみをもって呼ばれている。

●細川忠利
豊前小倉城の城主だった細川忠利は、2代にわたった熊本城主の加藤家が改易された後、肥後に入国した。細川家は、織田信長(1534~1582)、豊臣秀吉、徳川家康(1543~1616)に仕え、戦国の世の中をくぐり抜けてきた大名家である。
細川忠利の祖父である幽斎(ゆうさい)は、当代一流の文化人として名を馳せ、父の忠興(ただおき)は、茶人としても知られ、千利休(1522~1591)の弟子でもあった。その血筋を受け継いだ忠利も文人であり、武道にもすぐれた才能をもっていた。江戸時代の有名な武士のひとりである宮本武蔵(1584~1645)が晩年を熊本で過ごしたのは、この忠利が客人として招いたからである。

●西南戦争と谷干城
1877(明治10)年2月におきた西南戦争で、熊本城は50日あまりにも及ぶ籠城戦の舞台となった。 城内には熊本鎮台司令長官谷干城(たてき)率いる鎮台兵3500人が籠城して薩摩軍13000人と戦い、熊本城は近代戦を経験した城となり、また難攻不落の堅城であるということを名実ともに実証したが、開戦直前に天守と本丸御殿一帯が炎に包まれた。原因には放火・自焼などいくつかの説があるが、いまだに特定はできていない。

・熊本県熊本市中央区本丸1-1
公式ホームページ

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