旧近藤邸 (51 画像)
旧近藤邸は、関東大震災の直後の1925(大正14)年、藤沢市辻堂の松林に別荘として建てられた。当時の和洋折衷の代表的な建物といわれている。建て主の近藤賢二没後、所有者が変わり、老朽化に伴って取り壊しが決定されたが、保存を望む声が近隣の住民や建築家から起こった。「旧近藤邸を守る会」を中心とする1年余りの保存運動の結果、藤沢市によって移築保存されることになった。1981年3月、藤沢市民会館の前庭に移築され、今日に至っている。
旧近藤邸を設計した遠藤新は、1914(大正3)年に帝国大学を卒業後、帝国ホテル(旧館)の設計で知られるアメリカの建築家フランク・ロイド・ライトに6年間師事し、その思想を学ぶと同時に、日本の生活と風土に合わせた独特の様式を編み出した。常に建築と人間との調和を考え、西欧の模倣ではない「真の日本の住宅」を追い求めた遠藤新の精神を、旧近藤邸の随所に読みとることができる。

●旧近藤邸によせて 遠藤楽(建築家)
大正14年に建てられた「旧近藤邸」が、藤沢市の手によって保存の運びとなり、藤沢市民会館の前庭に移築され、新しく市民の施設として生まれ変わった。
この保存運動は地元の婦人たちの手によって展開され、驚くべき短期間にその実現を見たもので、たぐいまれなるこの運動に対して建築家協会から表彰を受けるに至った。
大正14年といえば、あの関東大震災の直後のことであり、人々の脳裏に地震に対する恐怖が焼きつけられた時期だった。したがって、この家には地震に対する様々な工夫が盛り込まれている。
設計者の遠藤新は、この時36歳で、帝国ホテル建築のために来日していたフランク・ロイド・ライトの助手として6年間を過ごした後、独立して自分自身の事務所を開いて間もない頃のことだった。それだけに、この家には何か強い意欲を感じることができる。
彼は建物をできるだけ軽く作ろうとする配慮から、ツー・バイフォー(2×4)の工法を取り入れ、屋根も軽い材料(建築当時は栗こば葺き)で葺かれていた。これらの配慮は地震のおそろしさが未ださめやらぬ時期においては、当然のことだったと思う。
以上の工夫は構造上の工夫だが、この家について特筆しなくてはならないのは、むしろ住宅そのものの、「生活の場」としての工夫にあったと思われる。
日本に古くから伝わる文化に背をむけることなく、新しい文明を取り入れて、和と洋とが一体となって、それぞれ単体では得られなかった新しい効果を生み出している。この様な建物が生まれたのは、設計者のみによるものではなく、建て主である近藤賢二氏も真実を追い求める人であったからに違いない。
そして、この度の保存が、歴史学者の理論によって残されたのではなく、近隣住民の愛情によるものであったことに大きな意義があるのだと思う。

●遠藤新(1889~1951)
福島県相馬郡福田村生まれ。大正12年東京帝国大学を卒業後、明治神宮造営局勤務。その後、帝国ホテル(旧館)の設計のために来日していたフランク・ロイド・ライトのチーフアシスタントとして従事する。自然と調和し人間性の回復を求めた有機的建築家として知られている。

●近藤賢二(1874~1948)
兵庫県淡路島生まれ。明治27年同志社大学を卒業後、北海道の牢獄教戒師、台湾総督後藤新平の秘書官、ライジングサン石油支配人、横浜電気鉄道取締役等を経て、近藤邸建設当時は朝日石綿工業、他数社を経営。近藤氏には子供が11人おり、子供たちとこの別荘で過ごす時間を大切にしたといわれている。

・神奈川県藤沢市鵠沼東8-1
公式ホームページ

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