日野宿本陣(旧佐藤彦五郎邸) (105 画像)
江戸時代、甲州道中日野宿の中程、中宿には本陣、脇本陣が軒を連ねていた。2軒は日野本郷の名主と日野宿問屋を兼帯し、西が本陣の佐藤隼人家(通称上佐藤家)、東が脇本陣の佐藤彦右衛門家(通称下佐藤家)であった。この建物は旧脇本陣の下佐藤家住宅であった。両家間は現在塀が設けられ、敷地を区分しているが、当時は仕切りはなく、自由に行き来ができ、街道沿いに両家の長屋門が並び建っていたといわれる。
1849(嘉永2)年正月18日、本陣や問屋場のあった宿の中心、中宿北側から出火した火災は北風に煽られて本陣、脇本陣をはじめ十余軒を焼く大火となった。本建物は大火の時の佐藤家当主彦五郎俊正が十分な準備期間をおいて普請したものであり、口伝によると10年にも及ぶ歳月を費やして竣工したと言われる。1863(文久3)年4月15日に上棟し、1864(元治元)年11月にはほぼ完成したようで、同月23日に本宅への家移りの祝儀を行い、同年12月28日に家内一同が実際に家移りしている。なお、1868(慶応4・明治元)年9月「村差出明細帳」によれば、「本陣壱軒 脇本陣壱軒」として「右弐軒共、去ル嘉永二酉年中類焼仕、当時家作普請中ニ御座候」と見え、本陣・脇本陣共に正式な営業は再開していなかった。
現在の建物は左土間、多間取りの主屋で、上屋桁行、梁間は11間4尺×5間で、北面中央に2間×1.5間の入母屋屋根の式台、北面、東面、西面に3尺の下屋、南面に4尺の下屋が付く。創建当初は更に南に12.5畳の上段の間と10畳の御前の間の二間があった。その二間は1893(明治26)年の大火により主屋が消失した佐藤彦五郎四男彦吉の養子先の有山家へ曳屋され、現在に至っている。その際に当初の間取りを若干変更して現在の間取りとなった(有山家は非公開)。
屋根は切妻瓦葺で、「本陣」としての格式を漂わせている。土間と床上は約2.5尺(約76cm)あり、床は一般民家と比べると高い位置にある。
当家を訪れた大名等の身分の高い人々は、式台から上がって玄関の間、廊下と進み、右へ折れ、中廊下へ出て南へ向かい、下の間、中の間、御前の間を経て、最上段の上段の間へ行き、休息、宿泊したと思われる。玄関の間、廊下は、広間境、控えの間境及び廊下正面を板戸とし、廻りの部屋との区分を明確に持たせている。手前の中の間、下の間は控えの間で、更に北の控えの間6畳2間は供者が控えていたと推測される。
北中廊下の西の突きあたり、控えの間2間の西は、供者が使用する雪隠(便所)が付く。上段の間の裏は、身分の高い人が使用する風呂及び上雪隠が付いていたと推測される。
佐藤彦五郎は火事の翌年1850(嘉永3)年に天然理心流三代近藤周助邦武(近藤勇の養父)の門に入り、熱心に剣術の稽古をし、屋敷東側に佐藤道場を開いたという。家移りの後、長屋門を改修して「稽古場」(道場)を付設し、1866(慶応2)年11月朔日、稽古始めを行っている。
その長屋門は1926(大正15)年の大火で被害にあったが、門通路部分の親柱、大扉、潜り戸が辛うじて火災の被害から逃れ、現在その門通路部分のみが移築され、街道沿いに冠木門として残されている。
日野宿本陣は、棟札により建築年代、建築時の当主、大工棟梁等が明らかであり、数度の増改築等を経ているが、改修の記録や資料が良く残されていること、上段の間と御前の間の部分が現存することから、創建時の本陣の形に復原することが可能である。瓦葺の建ちの高い大屋根と入母屋玄関をもち、本陣建築として意匠的に優れているのみならず、小屋組は和小屋組で、京呂組を多用しており、土台を側廻り等に廻すなど江戸時代末期の建築構法を知る上で重要である。
甲州道中日野宿の問屋、「本陣」、日野本郷名主家の風格を備えた遺構として、日野宿、甲州道中の歴史を知る上で重要であり、都内唯一の「本陣」建築としてその歴史的価値が高い建物である。

●佐藤彦五郎と新選組
幕末・維新期という激動の時代に、多摩地域は新選組の中心人物を多く輩出させた。近藤勇は上石原村(調布市)、土方歳三は石田村(日野市)の出身であった。かれら天然理心流の剣士たちほど有名ではないが、新選組に大きな影響力を与えつづけた人物として、佐藤彦五郎の存在を忘れてはならない。彦五郎は日野本郷の名主兼日野宿問屋をつとめ、脇本陣を経営していたが、新選組の誕生から解体に至るまで、一貫して外部にあって応援していた。
彦五郎は下佐藤家の当主であり、1827(文政10)年に生まれた。幼名は庫太、通称は彦五郎、1868(明治元)年からは彦右衛門を襲名した。名乗は俊正。家伝によれば恋ヶ窪村(国分寺市)の宝雪庵可尊に俳諧を師事し、春日庵盛車と号した。1837(天保8)年正月に11歳にして名主見習役に就任したという。
彦五郎は多摩地域の繁栄の半面で進行する治安の悪化を憂慮し、生家が小山村(町田市)にあり、多摩地域での門人獲得に熱心であった天然理心流の近藤周助邦武の門へ入った。これは日野宿に居住した人王子千人同心の井上松五郎が、すでに近藤周助の門人であったことが、大きく預かっていたらしい。これによって近藤勇とは弟弟子の関係になり、同7年2月に中極位、ついで免許の奥義を許されたほどの上達ぶりであった。それ以来、近藤周助やその養子となった近藤勇に対しては、宿泊をはじめとするさまざまの便宜を図った。近藤勇からは1863(文久3)年浪士組への参加や、つづく新選組の結成などについて相談を受けたといわれるが、彦五郎はその都度深い理解を示し、精神的・財政的支援を惜しまなかった。
妻のぶ(前名とく)は、石田村の土方隼人義諄の四女で、土方歳三はその弟であったから、彦五郎にとっては義弟(彦五郎の母も土方家の出身であったから従弟でもあった)の間柄であった。その関係から彦五郎と歳三との交流も親密なものがあり、まさに近藤と土方を支える扇の要に位置づいていた。
他方、「佐藤道場」を開き、門人の稽古に解放した。天然理心流の稽古はほとんど屋外であり、彦五郎邸の庭先のみならず、欣浄寺なども利用し行われている。その後長屋門に「稽古場」(道場)を付設し、1866(慶応2)年11月朔日、この日の稽古始めには、宿方や近村から100名ほどの出席者があり、終日稽古に励み、昼にもタにも酒で饗応したという。当時の道場は、立川(立川市)では丸屋の物置、程久保村(日野市)は小宮競次郎の屋敷続き、粟須村(八王子市)は井上忠左衛門宅などにあったが、彦五郎の道場は本格的なものであった。京都で活躍する近藤の留守中には近隣村での出稽古に赴き、みずから剣術指南をかって出て、近藤から託された神文状に誓約させることで門人の増加や流派の発展に貢献していた。
この間、彦五郎は公私にわたる日記を認めていて、1857(安政4)年から1869(明治2)年に至る一部が最近になって伝存することが確認された。これによって、新選組結成以前から彦五郎と親交した近藤・土方、そして沖田総司などの活動が具体的にうかがえ、なかにはこの日記にしか記録されていない新事実もあきらかになった。

●新選組隊士の里帰り・訪問
・土方歳三 1865(慶応元)年4月10日~18日、1867(慶応3)年10月7日~12日
・大石鍬次郎 18668慶応2)年4月1日~3日
・井上源三郎 1867(慶応3)年10月7日
・近藤勇・土方歳三(甲陽鎮撫隊として) 1868(慶応4)年3月2日休憩

●日野宿を訪れた著名文化人、大田南畝(蜀山人)
狂歌師・戯作者として著名な大田南畝(蜀山人)の日野来泊は、彦右衛門蕎麦とともに、今に広く語り継がれる歴史事実である。蜀山人とは、南畝・四方赤良・寝惚先生などとともに、江戸幕府に仕えた御家人大田直次郎、名乗は覃(たん・1749~1823年)の雅号であった。
狂歌とは五七五七七の韻をふんだ和歌のパロディーであり、寛政改革の文武奨励を皮肉った「世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶ(文武)といふて 夜もねられず」という有名な1首は、当時の市中でもっぱら南畝の作だと噂され、それが彼の出世の妨げになったともいわれた。事実、南畝の学問・文才は相当なものとして知られ、1794(寛政6)年幕府の第1回学問吟味(学術試験)では首席で及第し、一説にはそれが効を奏して同8年御徒から支配勘定へ異例の抜擢をされたという。時に48歳のことであった。その後、大坂の銅座詰、長崎奉行所詰を経て、江戸の勘定所詰に帰任している。このように長年勘定所につとめ、支配勘定という旗本昇格直前の地位にあったものの、ついにそれ以上の出世は叶わなかった。
さて、江戸詰となった南畝が玉川(多摩川)通普請掛り勘定方の任にあった1809(文化6)年、公務出張である玉川巡見旅行の途中で、日野宿には少なくとも3度宿泊していることが、南畝の著書「調布日記」から確認できる。時に61歳のことであった。最初は、正月2日に日野本郷村の堤を視察し、午後4時頃に日野村の玉屋栄蔵のもとへ投宿し、翌日に粟須(あわのす)村(八王子市)へ出立している。宿所の右方に天王社頭(八坂神社)があって、社の彫物に興味をひかれたことが記される。2度めは、2月17日に高幡村(日野市)の金剛寺に参詣したあと、下田村(日野市)から日野本郷に向かい、名主の佐藤彦右衛門(俊興)方に投宿した。彦右衛門方とは下佐藤家のことで、栄誉ある脇本陣への宿泊であった。滞在は雨のため2泊に及び、19日に出立している。その間に彦右衛門から小田原北条氏の禁制、長谷部雲谷の馬の画、1705(宝永2)年に大昌寺が下賜された女房奉書などを見せられ、とくに古文書をめぐっては意気投合した様子が詳しく記される。3度めは、3月27日に柴崎村(立川市)などを経て彦右衛門方へ投宿し、翌28日に出立している。

●南畝が絶賛した日野の蕎麦
日野を3度訪れた南畝は、その3度めの滞在中に蕎麦との運命的な出会をしている。その内容については、「玉川砂利」に収録される「蕎麦の記」に詳しい。この文章は、出立前のあわただしい1809(文化6)年3月28日の朝、日野本郷の名主佐藤彦右衛門に急いで認めて与えたと註記がなされる。それほど南畝を魅了したのは日野の蕎麦であった。その文章がしたためられた原文書(佐藤彦五郎子孫所蔵)には、「ことし(今年)日野の本郷に来りて、はじめて蕎麦の妙をし(知)れり、しなの(信濃)なる粉を引抜の、玉川の手づくり手打よく、素麺の滝のいと長く、李白が髪の三千丈も、これにハすぎしと覚ゆ、これなん小山田の関取ならねど、日野々日の下開山といふべし」と記され、下のような狂歌が作られた。

そば(蕎麦・側)のこ(粉・子)の から(唐・殻)・天竺は いざしらず これ日の(碑の)のもと(本)の 日野の本郷

南畝は日野の蕎麦を賞味して、はじめて蕎麦の醍醐味を実感できたと感激している。その蕎麦は、信濃産(良質)の蕎麦粉を厳選し、玉川の水(玉のような美水)を加えて手打ちしたもので、素麺の滝の糸(銘柄)のような細長さは、李白(中国唐朝の文人)の美髪も及ばないと感じられたなどと記す。狂歌では、蕎麦粉は唐(中国)や天竺(インド)のことは知らないが(蕎麦の縁語を使って、どうでもよい殻や茎ではなく、実こそが肝心であると茶化している)、やはり日本では日野本郷のものが最高であると詠んでいる。掛詞で解釈すれば、わが子の成長(体重・身長)をひいき目に見て自慢する親バカのような惚れ込みように、南畝自身が冷笑している姿を重ねている。
その他の狂歌には、次の1首も彦右衛門家にゆかりのあるものとして知られる。

いかにして 粉をひこ(挽・彦)右衛門 ふる(篩)いては 日野の手打ちも こま(細)かなるそば(蕎麦)

彦右衛門はどのようにして粉を挽き、ふるい分けているのだろうか、日野の手打はほんとうに細い蕎麦である、という意味であろう。丹誠込めて細やかに、みずから蕎麦を打ってくれた彦右衛門への感謝の気持ちと、その秘伝ともいうべき製造法への強い関心が句に注がれている。

●明治天皇を笑わせた大田南畝
日野宿本陣の上段の間の襖には大田南畝の書画が表具されていた。その1枚にかかれていたのがタケノコの絵と狂歌である。

蜀山人画題(落款)
たけのこ(竹の子)の そのたけのこのたけの子の 子のゝゝ末も しけ(繁)るめて(目出)たさ

来訪は竹の子の出る季節であり、南畝が目出度い竹の子の成長にたとえて、彦右衛門家の子孫繁栄・家運長久を祈念したものであろう。 句の随所で取り入れられた擬態語「のこのこ」という軽妙な語感には、誰もが思わず吹き出しそうになる。
事実、1881(明治14)年の行幸の際、明治天皇が前年についで佐藤家で再度の休憩をとられたが、襖に書かれていたこの狂歌をご覧になって、声高らかにお笑いになったという。

●日野宿の繁栄
甲州道中の日野宿は、江戸日本橋(中央区)から内藤新宿(新宿区)を経て府中宿(府中市)の次の宿場で、次に八王子宿(八王子市)に至った。日本橋からは10里(約39km)隔たり、隣の府中宿とは2里(約8km)、八王子宿とは1里27町余(約7km)の距離であった。また、脇往還であった岩槻道の小川新田(小平市)とは2里隔てていた。
本来は日野本郷と呼ばれ、幕府代官の直轄支配を受けた大村であったが、1605(慶長10)年宿場に取り立てられたとされる。しかし、宿関係史料の伝存状況からすると日野宿が本格化したのは天和年間(1681~1683)以降のことであり、宿場としての機能を十分発揮するようになったのは、元禄年間(1688~1703)頃のようである。
宿場は道中奉行の支配を受けた。宿場の町並みは街道両側に沿った東西9町(約1km)余で、宿内は東から西にかけて下宿・中宿・上宿に分かれ、時に日野町と称されることもあった。 中宿には、日野本郷の名主と日野宿問屋を兼帯して世襲した2軒の佐藤家の屋敷があった。西側の佐藤隼人家(七郎左衛門とも襲名、上佐藤と通称)が本陣(大名や幕府役人用の旅館)を、東側の佐藤彦右衛門家(下佐藤と通称)が脇本陣(本陣に準じた旅館)をつとめた。「甲州道中宿村大概帳」に拠れば、本陣建坪117坪、脇本陣建坪112坪とあり、甲州道中で本陣・脇本陣そろって建坪が100坪をこえる例は日野宿のほかになく、並び立つ大きな陣屋は旅行者の注目の的であったといわれる(犬目宿には本陣2軒があり、共に100坪を超えているが、脇本陣はない)。
本陣の向かい側には、荷物の継ぎ立てを行う間口3間半(約6.3m)の問屋場があり、街道の中央には高札場が築かれていた。問屋のつとめは、毎月1日から15日は下佐藤家が、16日から晦日は上佐藤家が分担する慣行であった。問屋の補佐には年寄と呼ばれた40名があたり、2名ずつ昼夜交替で問屋場に詰め、その配下で毎日の記録をとる帳付、人馬の割り振りをする馬指(うまざし)、使い走りの定使(じょうづかい)などを指揮して実務をこなしていた。 また日野宿では多摩川日野渡船場の管理・運営も行っていた。
日野宿の継ぎ立て人馬は人足25名、馬25頭とされ、これをもって幕府公用の伝馬役を基本的には無償で担うものとされたが、住人にとってその負担は大きなものであったという。その替わりに地子免許の土地(免租地)こそなかったが、ふつう幕府領に課された高掛三役(付加税)のうち御伝馬宿入用(宿助成金)を除く、六尺給米(江戸城雑用人の給与米)と御蔵前入用(幕府御米蔵の維持費)が免除されていた。また、大通行の際には助郷役といって、日野宿に人馬を供給する役割を担った近隣の村々が37箇村あった。 年間の継ぎ立て人馬は、1816(文化13)年8,182名・3,180頭、同14年7,866名・3,284頭、1818(文政元)年9,525名・3,384頭、同3年1万473名・4,041頭という記録がわずかに残っている。時期的な継立の傾向は、参勤交代の時期である3・4月、および12月に多く、正月・7月に少ないといえる。御朱印証文による公用人馬の継立は、12月に多かった。宿自体の人馬の調達率は、平均で人足は63.2%、馬は92.9%であり、ほぼ馬については自弁していたことが判明する。参勤交代で通過する大名は、高島藩諏訪氏、高遠藩内藤氏、飯田藩脇坂氏(のち堀氏)の3藩に限られ、東海道や中山道と比較すれば、その交通量は多くなく、五街道中最も少なかったといわれる。
一般的に日野宿には、飯盛女などの風俗営業がなかったため休憩用の宿場とみなされ、ほとんど旅行者は八王子か府中の両宿で宿泊したといわれる。しかし、それでも甲府勤番・八王子千人同心・甲府定飛脚の往来は頻繁にあり、また1738(元文3)年以前には御茶壺通行があった。将軍代替わりの巡見使や勘定所役人・代官などの幕府役人、さらには諸商人、富士・身延などへの寺社参詣人、江戸出訴人など一般旅行者が宿泊した例は枚挙にいとまがない。
1839(天保10)年4月の「諸渡世向議定連名帳」によれば、質屋7軒、反物・荒物・瀬戸物類・米穀屋4軒、荒物・瀬戸物屋4軒、古着屋5軒、居酒屋16軒、食物屋20軒、薬種屋1軒、菓子卸1軒、小間物屋3軒、古鉄・紙屑買4軒、酒屋2軒、下駄類1軒、髪結2軒、旅籠屋18軒と見え、日野宿の町場としての繁栄を一定程度うかがうことができる。

・東京都日野市日野本町2-15-9
公式ホームページ

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