北里柴三郎生家 (112 画像)
北里柴三郎の生家や、博士から小国町に寄贈された北里文庫(図書館)を改修し、偉業をたたえているのが北里柴三郎記念館である。
この施設は生前、柴三郎が大正5年に建てた貴賓館、北里文庫があった敷地に、昭和62年、北里の学問を受け継ぐ北里研究所、北里学園が中心になって柴三郎の生家の復元修復を行うとともに、北里文庫の建物を利用して柴三郎に関する遺品などを陳列し、小国町に寄贈されたものである。
その後、平成24年より北里研究所の寄付により北里柴三郎記念館の全体改修工事がはじまり、平成26年工事が完了しグランドオープンを迎えた。
館内の「北里文庫」「貴賓館」は平成28年に設立100年を迎えるに至った。

●北里柴三郎
日本が誇る世界的な細菌学者北里柴三郎は、1853年1月29日(嘉永5年12月20日)阿蘇郡小国町北里村の庄屋北里惟信の長男として生まれた。
1871(明治4)年熊本医学校に学び、さらに東京医学校(現東京大学医学部)に進み、卒業後、内務省衛生局に勤務、国の留学生として結核菌の発見者であるドイツのローベルト・コッホに師事した。ここで貴重な研究業績を次々に発表、なかでも、破傷風菌の純粋培養の成功(1889)と血清療法の確立(1890)は前人未踏のもので、世界の医学界にその名をとどろかせた
帰国後、福沢諭吉などの援助により、伝染病研究所を設立、わが国の近代医学に大きな足跡をとどめた。1914(大正3)年自力で北里研究所を創設、1931(昭和6)年死去するまで終生わが国の公衆衛生、医学教育、医療行政の発展に貢献した。

●光るえんがわ
1861年(文久1年)、教育熱心だった母は、当時8歳の柴三郎を伯母満志の嫁ぎ先である小国郷志賀瀬村(現在の南小国町志賀瀬)の橋本龍雲家に預け、四書五経を学ばせている。その橋本家にあるえんがわを柴三郎がびかびかになるまで毎日拭き続けた話が熊本県の小学1・2年生の道徳の教科書「くまもとのこころ」に掲載されている。
●破傷風菌の純粋培養に成功 1889(明治22)年
コッホは、病原菌というものは体外に取出してその菌だけ純粋に培養し、何代も代を継いだ上で実験動物に接種した時、もとの病気を起こすものでなければ病原菌とは認められないと、かねがね主張していた。
破傷風が感染性の病気であることは、柴三郎が破傷風菌の研究をされる前にすでに実験的に証明されており、一方、太鼓のばちのような形をした菌(ニコライエル菌)が破傷風の原因菌ではないかという想定もなされていたが、これまで純粋にこれを培養した人は誰もおらず、破傷風の病原菌確定は学界の大問題であった。
柴三郎は、破傷風菌はその発育に空気の存在を嫌う菌(嫌気性菌)であることを鋭く看破し、また、破傷風患者から得られる材料には破傷風菌のほかに各種の雑菌が混在しているが、これらの雑菌は加熱することにより殺滅させ、破傷風菌のみとすることができないかと考えた。それで、まず培養材料を加熱し、これを空気を水素ガスで置換した状態の下で培養した。想定は見事に的中し、1889年(明治22)世界で初めて破傷風菌を純粋に培養することに成功したのである。
引続き柴三郎は、破傷風菌の純粋培養濾液を用いて破傷風毒素を発見し、さらに抗毒素を発見して血清療法という新しい治療分野を拓いたのである。

●人類史上最大の脅威 ペストの恐怖 それに立ち向かった「細菌学の父」北里柴三郎
新型コロナウイルス同様に世界的パンデミックを起こした感染症があった。その中の一つがペスト(黒死病)である。
ペストに感染すると腋や鼠径部のリンパ腺がひどく腫れる。じきに黒い斑点が皮膚に現れ、短ければ一日、長くて数日のうちに多くの人が死に至った。原因はわからず、感染を防ぐ有効な対策も治療法もなかった。患者に触れたり同じ空気を吸うだけで感染すると人々は考え、家族すら看病を放棄した。一方で治療を施そうとした医師や、最期に寄り添おうとした聖職者たちは次々と感染し犠牲になった。
ペストは、6世紀と14世紀と19世紀に計3度のパンデミックを起こし、人々を恐怖と混乱に陥れた。特に2度目のパンデミックではヨーロッパの人口の約3分の1の人々を死に追いやったと言われている。ペストはその感染力と致死率の高さで恐れられていた。
そうした歴史を持つペストに世紀を超えて立ち向かった人物がいる。それが北里柴三郎である。
1894年、100年近く姿を消していたペストは中国南部で突如として現れ、やがて香港で大流行を引き起こした。町中が混乱と恐怖に包まれるなか、「過去のような惨劇を、なんとしても食い止めなければ」と、ペストの原因を突き止めるべく、北里柴三郎は中世にはなかった細菌学を武器に、明治政府の命により香港へ渡った。
当時、香港でペストがもっとも多く発生していた地区では、患者のいない家庭はないほどだった。香港政庁は該当する約12,000坪を封鎖し、区域内の患者と住人を強制退去させたのち、家屋を取り壊し、家具を焼きはらった。それしか対処の方法が見出せなかった。そんな一刻の猶予もない壊滅的な状況のなかで、北里柴三郎ら一行は到着するや病死した患者の解剖に急いで着手する。ところがいざ北里柴三郎が顕微鏡で解剖標本をのぞくと、すでに腐敗が始まっており、雑多な菌が無数に増殖している。これでは埒があかない。
しかし北里柴三郎には、経験に基づく作戦があった。それは「症状や臓器の変化を既知の伝染病と比較すること」。もし共通点があれば病原菌の性質も似ている可能性が高い。
改めて取り出した臓器を調べてみる。「なるほど炭疽(そ)症に近いぞ。あれは血液中に菌が入り敗血症を起こす。ペストの病原菌も同じではないか?」彼はペスト患者の血液を手に入れた。すると顕微鏡の視野に、特徴的な細菌が認められたのだ。北里柴三郎は、思わず声をあげた。
「これだ、ついに発見したぞ、ペストだ」
それは1894年6月14日のことだった。長年に亘り人類を苦しめ多くの命を奪ってきた、ペストの正体を暴いた瞬間だった。実に香港到着から2日後のことであった、病原菌が分かれば、ペストを防ぐには、その菌を調べていけばよい。そして加熱や消毒液への耐性といった性質や、推定される感染経路などが次々と明らかになっていく。家屋等の消毒や菌を運ぶクマネズミの駆除をはじめ、公衆衛生の対策がなされると、香港は落ち着きを取り戻していった。
5年後の1899年、ペストはついに日本(神戸)に上陸した。だがこの事態を予測した北里柴三郎は、すでに防御策を講じていた。まず伝染病予防の大切さを担当大臣や役所に説いて回り、1897年に「伝染病予防法」を成立させた。そこには彼の主張通り、上下水道の整備、患者の隔離、地域の消毒、船舶や列車の検疫など必要な条項が網羅されていた。そしてこの年、1899年には北里の建議により「開港検疫法」にペストが追加された。
北里柴三郎はつねに実際の診療や予防の役に立つ研究を心がけていたのだ。
その「実学」を重んじる北里柴三郎の考え方が上述の「伝染病予防法」の成立や「開港検疫法」へのペストの追加など、感染症を予防するための法律の整備、さらにはネズミ駆除などによる感染経路の分断対策として生かされ、日本は「ペストのない国」となった。
今日の新型コロナウイルスのパンデミックによる、日本の被害が幸いにも他国よりも少ないのは、北里柴三郎が様々な感染症と戦い、そのうえで予防医学と公衆衛生の必要性を説き、日本国民に衛生思想を根付かせたことも要因のひとつではないだろうか。

・熊本県阿蘇郡小国町北里3199
公式ホームページ

クリックして画像を拡大





トップページへ inserted by FC2 system