加藤弘之生家 (29 画像)
近代日本の先覚思想家で東京帝国大学の初代総理(総長)となった加藤弘之は、1836(天保7)年出石藩士加藤四郎兵衛正照の長男として生まれ、幼時藩校弘道館に学び、17歳の時江戸勤番となった父に従って佐久間象山の門に入った。その後、西洋兵学や蘭学に加え、英、仏、独の語学を修めて西洋思想の啓蒙に活躍した。主な著書に日本で最初の立憲政体を論じた「隣草」などがあった。
生家であるこの家は、屋根、外観等は改修されているが、敷地と建物は当時のままで、出石町の文化財に指定されている。

●加藤弘之と東京大学
加藤弘之は、東京大学の前身である蕃書調所勤務をきっかけに、日本の教育行政に大きな幕末、足跡を残した。東京大学は幕府天文方(1684)をルーツとし蛮書和解御用、蕃書調所、洋書調所、開成所(1863)、開成学校(1868)、大学南校などを経て、再び開成学校(1873)、明治10年に東京開成学校となり、同じ年東京医学校と合併し誕生した。加藤は、明治2年大学大丞に任じられ、教鞭をとりながら国の教育行政の改革にも取り組み、明治4年に文部省が発足すると政府高官の厚い信頼を得て文部大丞に就任し、事務方の教育行政のトップ(現在の事務次官)になった。
加藤はより高度な専門教育機関の重要性を説き、東京大学創設(明治10年)に大きく貢献した。そして、東京大学法学部、理学部、文学部各3学部の総理に任じられる。明治14年、加藤を中心にし、大学職制の改正が進み、それまで別組織であった医学部が統合し、日本初の総合大学が誕生した。3学部の総理から名実ともに東京大学の総理になったのである。加藤は、運営機構、教官組織などの大学の整備を進め、ドイツ語教育の推進やインド哲学の擁護など特色ある学問の推進も行った。
明治19年小学校令、中学校令とともに帝国大学令が制定され、「東京大学」は「帝国大学」と名前を変え、初代の総長が任命された。初代文部大臣森有礼は帝大総長にそれまで総理であった加藤弘之を元老院議官に転出させ、その代わり、東京府知事の渡辺洪基をもってきたのである。この総長人事は森と加藤との関係が悪かったこと、帝国大学総長が学者の職より、行政官がふさわしい仕事、初代総理大臣伊藤博文と渡辺の関係などが原因といわれている。こののち、明治23年に加藤は第2代総長に就任している。このように加藤は、東大総理(加藤で始まり、加藤で終わる)約9年、帝国大学総長約3年と東大初期の立ち上がりに大きく貢献し、まさに生みの親といえる人である。
加藤の総理時代、学生であった経済学者金井延(1865~1933)によれば「加藤先生の総理在任中の功績を称える意味と慈父のような人柄を慕って、学士の他教官学生など120名が明治19年4月18日小石川植物園に集まって謝恩会を開いたが、これが実に学士会創立の発端である。この席上参会者一同の間で、このような親睦会を続けたいとの気運が盛り上がった。」とある。

・兵庫県豊岡市出石町下谷10-1
公式ホームページ

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