金子家 (7 画像)
幕末の動乱期、当金子家に、新撰組の一隊(当時は甲陽鎮撫隊)が半月余にわたって滞在していた。
当家には覚書、願書、書簡、それに鎮撫隊の動向書、風聞書など、その間の新撰組の動きを知る貴重な資料・金子家文書(新撰組関係資料21点)が保存されている。
これらの文書から見ると、新撰組の当地滞在期間は、1868(慶応4)年3月13日から4月1日までの20日間。人数は当初48人から次第に増加して、終りの頃には227人に達した。
当時の金子家は敷地3000坪・家屋建坪約140坪を有していたが、賄いきれなくなり、村内の観音寺、新宅(金子家の別屋敷)、滝次郎宅の3か所に分宿させた。大砲2門を据え、ここで兵の調練までやったという。
千住宿への官軍の進出と、これに伴う歩兵の逮捕をうけて、4月1日の深夜に五兵衛新田を急きょ離れ、2日に下総流山(現・千葉県流山市)に転陣、駐屯した。近藤勇は流山転陣に際し、自分の写真と一緒に金二千疋(5両)を金子健十郎に渡したと伝えられているが、金子家が立て替えた費用は300両を軽く超えていたという。
主な資料をあげると、「乍恐以書付奉申上候」=五兵衛新田の年寄源右衛門が、金子家に近藤勇達が宿泊していることを代官所に届け出たものである。
「おぼへ」=当主健十郎が認めた賄方の記録で、滞在期間の動向を知る貴重な資料である。
書簡=代官佐々井半十郎より医師松本良順宛と近藤勇宛のもの等がある。
これらの資料は足立区登録有形文化財となっている。また、当家の祖先であり「五兵衛新田」の開拓者の一人である金子五兵衛の墓(足立区登録有形文化財)は、観音寺に建立されている。

・東京都足立区綾瀬4-15-21
公式ホームページ

クリックして画像を拡大





トップページへ inserted by FC2 system